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版の現在
「 版 」 の概念とその可能性について
− 現代・美術における「身体」との関わりからの一考察 −
福島大学 渡辺晃一 / 福島大学大学院 荒木久美子
第2章 「版画」の<版>について

1.「版画」とは何か

  <版>と美術との関わりを述べるとき、一般に文字通り<版>の画が関わってくるでえあろう。先の現代国語辞典には、「版画」を「木版・石版・銅版などで刷った絵」と記載していた。言いかえると「版(版材)を使って、間接技法によって制作された、絵画(平面)とも定義されよう。しかしこの<版>は材料や形式、制作の過程によっても、広義な意味内容を含んでいる。
  ・「版」を媒体にした絵。
  ・「版の過程」を通して作る絵(刷られた絵)
  ・「版の表現」による絵画と同列に並ぶ平面画像
  「版画」を多くの文献では、a print、graphic art と訳している。 a printは「印、跡、型をつけたもの」の他にも「写真による印画」、「印刷物」等の意味が連なっている。またgraphic の語根には、図式、図表という意味があり、「記録する機械」を伴った複製印刷の意味ももつ。実際、西洋の歴史をみると、凸版や凹版、平版などのprintは、既製絵画を「複製」する手段として発達した背景がある。結果、日本でもprintの単数名詞と癒着させ、「描くもの(paint)」に対して「刷りもの( print)」と解するなかで、「版画」は複製技術や映像メディアとも関わってきた。
  しかし日本の「版画」という言葉は、a printやgraphicを訳したものではない。「版画」という名称は、近代(明治期)に、「複製」とは違う「美術による<版>の画」を普及させるための時代的な要請から定着した語である。そこで本章では「版画」という名称がいつ頃から、どのような意味で使われたのか、生まれた経緯や、本概念が伝えようとした意味内容を通じて、あらためて<版>の問題を提起したい。

2.「刷りもの」から「版画」へ ー「版画」という名称の由来ー

  明治期の日本で、民衆に身近な「絵」といえば、暦、引き札、雑誌に挿入された挿絵などの「刷り絵」であった。(註9:<版>によって刷られた絵のことを、当時は「刷り絵」と読んだ。「『刷り絵』から『版画』へ」青木茂、『版画・80年の軌跡』(第1部)、町田市立国際版画美術館、1996年を参照)今日でいう広告、包装紙のデザイン、ポスター、絵はがき、雑誌のコマ絵、装丁や図案等が多数、生活環境に浸透したのである。写真や石版のような印刷機器を用いたことにより、多くの画家が容易に大量出版の体裁をとることができたこと、さらに写真術の普及により、現実を忠実に再現でき、即時的な「報道」が提示できた背景も考えられよう。その結果、「浮世絵」という、板目木版によって「報道」を伝達してきた技術は、急速に衰退していった。
  しかし同時期に、機械導入による印刷術の急速な進歩とは裏腹に、手仕事を通じて「美術作品」である<版>を強く意識させる運動も展開した。山本鼎(1882-1946、図3『漁夫』)をはじめとした洋画家による「創作版画運動」である。(註10:「創作版画運動」と称される実験的な動きは、明治37年(1904)雑誌『明星』第7号に山本鼎が発表した木版画『漁夫』および、同誌に寄せた石井柏亭(1882-1958)の一文「友人山本鼎君木口彫刻と繪画の素養とを以て画家的木版を作る。刀は乃ち筆なり。ほんごう本號に挿したるもの是れ。」を添えられている。)「報道」と関わることなく、画家が作品の主題を自由に制作することで自らの内面を求めようとしたこと。また「自画・自刻・自摺」によって、作家自らが<版>の効果を計算に入れて描き、刻み、摺るという、制作の全行程を、監督し、刊行する必要性が謳われた。それは、より多くの民衆への普及、複製を目的とした「刷り絵」、絵師・彫師・摺師という三者の協業や「報道の道具」を担っていた「浮世絵」とも違う考えに裏付けられていた。そして「版画」という名称は、山本鼎が「外国雑誌中の版画を師として」や「美術的版画の隆盛」という言葉で文章中に使用したのが初期の例とされている。(註11:山本鼎「西洋木版に就いて」、『平旦』第3号、第4号(1905年11月、1906年1月発行)は、森登編・解題「『平坦』目録及び解題」『神奈川県立近代美術館年報』1994年を参照した)山本は、腕ある刀の運びを基本とするなかで、筆と同等に彫刻刀の創造性を訴え、<版>の表現が、直接的な描写による「絵画」と同様の価値をもっているという「自刻の美質」を提唱した。版画の手引き書ともいえる「版のなぐさみ」(註12:「版のなぐさみ」『みずえ』に連載、春鳥会、1907年)と題された論考のなかでも、水彩を<版>に起こすことの愚を説き、何らかの複製に供されることのない<版>の美しさを語っている。このような文面から「版画」という言葉は、大量に複製された印刷物や雑誌に従属した「刷り絵」とは違う、一枚の「美術的な<版>の画」を隆盛させるための造語とも言えよう。「画」という言葉は、水彩画や日本画などの名称同様、一つの主題、領域を他と区別するために当時多用されていた。より強い<版>へのこだわりから<版>の概念を再構築させ、さらに「版画家」としての意識を芽生えさせるうで、「版画」という言葉が重要な役割を果たしたのである。
  では山本鼎の作品にみられる<版>の美質とは何か。「暗やみから形を引き出すようだ」(小野忠重「若き日の山本鼎」『版画の青春』所収、形象社、1978年)と語られた初期の作品、『漁夫』には、黒く塗った版木から、装飾的かつ鋭利で速度ある白い線が明快に彫り出されている。「特徴的な線條描写と大胆な色彩の平面化」(註13:菊屋吉生「自然主義から非自然主義へ」『明治日本画の情景』展覧会図録、山口県立美術館、1996年)、「単なるアマチュアリズムに堕することなく、また浮世絵の回顧に由来する、単調な輪郭線と色面との構成に終始することもなく、真に創作的な、新たな造形を生み得た」(註14:西山純子「1900年代の創作版画ー山本鼎の「刀線」を中心にー」『日本の版画・1900-1910 版のかたち百相』展図録、千葉市美術館、1997年、28頁)と称されている。山本が直接、版木から刀で白い線を彫り出したことは、浮世絵や木口木版が、絵師の黒い線を彫り残すこと、彫師の手の跡を見せないのとは異なり、ネガ、ポジ(陰刻、陽刻)にまたがる<版>の造形の可能性を提示している。

3.「版画」にみる<版>の効果

19世紀末頃から洋の東西を問わず、「複製印刷」とは違う「版画」を創作する考え方が、多く輩出されている。本節ではそれをムンク(Edvard Munch , 1863-1944 )の<版>から、あらためて提示していきたい。
   1896年の2月末から、ムンクはパリに滞在し(彼は1885年にも留学していたが)、主に版画の仕事をしていた。1890年代の前半、パリは多色刷り版画や彩色リトグラフが大流行し、版画活動の中心地であったことが背景にあろう。そこでムンクは当初、「複製印刷」の考えを主体に<版>を用いたと思われる。絵画よりも版画のほうが売りやすいこと、より多くの人々にメッセージを伝達し、広められる利点があげられよう。初期の版画作品のほとんどが、以前に制作した油彩作品と同じモチーフ(主題)と構図であることが裏付けている。
  一方、ムンクは凹版、リトグラフから、木版を多く用いるうようになる。木版はプレス(加圧機)を用いずに、芸術家自身で全工程ができる利点があげられてきた。またゴーギャン(Paul Gauguin,1848-1903)が1893年に有名な木版画集『ノアノア』を刊行していたり、ムンクと交流のあったナビ派の作家は木版を好んだことも関連するであろう。しかし彼らの<版>が、「木口木版」の単色刷りであるのに対して、ムンクは「板目木版」の多色刷りである。
  ムンクは、1枚の主版木の表裏を彫ったり、地(背景)と図(人物)等をパズルのように組み合わせて独特の版木を制作した。ノルウェーの生活習慣から、木材加工にも慣れていたのでえあろう。糸鋸を使ってモチーフを色彩面で分割し、切り抜いた部分ごとにローラーで色をつけた後、1枚に戻してプレスを使って刷っている。例えば『接吻』(図4)には、様々な配色の効果が繰り返されている。他にもムンクは、彫り方にバリエーションを試みたり、手彩色を施したりもした。これら作品を一緒に並べてみると、個々に示された作品とは違う、ある種の共鳴に似た独特の味が生じてくる。それら一連の作品をムンクは、「フリーズ」と呼んで、自作をシリーズとして扱う時間軸を示していた。大量の印刷出版とは違う<版>の効果を、ムンクの「版画」には表明されている。
  ところでムンクの『メランコリー』(図5)をみると、油彩の作品の「鏡写し」になっていた<版>が、再び逆の方向に向いたものがある。後に木版画をもとに版木を制作したのであろう。彼は「版画」と各種技法を併用したり、「版画」をprintではなく、一つの「作品」として捉えていたことも伺えれる。木版画を転写してリトグラフとして刷ったり、下塗りしたカンヴァス上に木版で刷ったもの、さらに1917年頃から、油絵の作品にも、明確な構図と鮮やかな色を用いる様になったのは、版画の影響と言われている。(註15:『オスロ・ムンク美術館所蔵 ムンク版画展』、1993年6月18日ム7月18日 主催:茨城県つくば美術館)

4.現代、「版画」にみる<版>

  <版>の表現に多様な可能性を開いたムンクの「版画」は、透明感のある多色刷りの彩色をしている。それは日本の水彩による木版画(浮世絵)をも思わせる。
1867年に開催されたパリ万国博覧会で、春信(1725-70)や北斎(1760-1901)などの 「an ukiyoe」が紹介されて以来、日本の木版画は賞賛と感嘆のまなざしで見られていた。大胆な構図と単純化されたフォルムや強い線、繊細で洗練された表現力など、いわゆるジャポニスムに深く魅了された画家も多かった。ゴーギャンやロートレック(1864ー1901)、アールヌーボーのシーン、ミュンヘンのユーゲントティールなどがあげられよう。そして資料が明白ではないが、ムンクが「版画」を制作する契機として、浮世絵の影響も考えられる。近代ヨーロッパ芸術への日本の影響は、かなり一般的なレベルまで引き下ろされていたからである。
  ムンクの版画は、ブリュッケの画家達の潮流であり、ケーテ・コルビッツ(Kathe Kollwitz 、1867ー1945、図6『寡婦』)やキーファー( Anselm Kiefer , 1945ー、図7『ブリュンヒルデ=グラーネ』
)など、ムンクの「木版画」と関連する美術家もドイツには多数いる。そして論者は逆輸入として、日本の「創作版画」にもムンクの<版>は繋がっていると措定した。当初、「創作版画運動」は、雑誌という体裁をとっており、その原動力に考えられる『パン(PAN)』誌(1895年にドイツで創刊)に、ムンクは創立者のひとりとして関わっていた。さらに直接作家の息づかいを強く感じさせる自由で素早い「刀の白い線」は、ムンクの版画と密かな重なりがある。さらに額縁に入れて「版画」を鑑賞する意識は、西洋の「近代絵画」と深く関わるものだ。ムンクは、描かれたタブロー絵画と版画を同列に考え、<版>の制作に激しい感情の表出を持ち込んでいる。
  「よい生命のある版画は、木版に限らず、制作者が画家であり、彫刻家であり、また刷り師でもなければならない」と、「創作版画」に影響を受けた森田恒友(1881~1933)は述べている。芸術的な手段を<版>に求める道筋は後に、多くの現代日本の「版画家」にも受け継がれてきた。一原有徳(1910〜、図8『GYN−TS』)は、「偶然と出会い続けるために版画家となっていた」(註13:『ICHIHARA一原有徳作品集』正木基編 博進堂 1989 24頁)と評され、多くのモノタイプ(一点制作による作品)を生みだしている。加納光於(1933〜、図9『波動説ーintaglioをめぐってNO,28』)は「瞬時に発現してくるもの、生成の一瞬を希うことに惹かれていった」(註14:「特集 加納光於」『版画芸術76』 阿部出版、1992、109頁)と自ら述べ、一版多色刷りのインタリオ(intaglio)を制作している。そして「版画」にいかなる造形を求め、位置づけたのかを<版>を通じて問いかけた時、printやcopyよりもimpressionの意味合いを強めた作品が多く輩出されていることが理解された。

 

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