〜ASCA〜芸術の現在・現代の美術 WebAE芸術と教育センターサイト
トップ特集連載インフォメーションスタッフ・ゲストリンクお問い合わせ
トップ > ASCA > 特集 > 「版」の概念とその可能性について(4)

[back] 1  2  3  4  5  6 [next]

版の現在
「 版 」 の概念とその可能性について
− 現代・美術における「身体」との関わりからの一考察 −
福島大学 渡辺晃一 / 福島大学大学院 荒木久美子
第3章 現代・美術における<版>の概念

1.<版>の造形の再定義

  『版画の話』という企画展がCCGA現代グラフィックセンターで開催された。(註16:1999年9月11日ー12月19日)そこでは「うつす=転写」「かえる=変換」「あつめる=集積」「くりかえす=反復」という4つのキーワードに沿って、広く「版画」を捉えていた。技法ばかりに注目するあまり、「版画」が日常生活と無縁で特殊な行為のように誤解されている現況に問題提起した興味深い内容であった。斉藤清は「文字を先に見るのではなく、白地を先にみるくせは、私の絵をかく基本」(註17:斉藤清『私の半生』民友新聞社)と述べていた。「うつす=転写」「かえる=変換」と関わて、ネガとポジ、白と黒を反転させる魅力もまた、<版>の表現における重要な意味を担っているであろう。そのことを初期に版画を制作していたエッシャー (M,C,Escheer 1898-1972)の系譜からも理解される。
  日本の「うつす」という言葉は多義を含んでいる。「うつす」は、鏡像的な「現れ、表れ」が生じたもの、距離を置いて本物そっくりに画像を作り出す「転写」の意や、写生の「写す」、空間的に移動する時の「移す」、さらにはカメラで撮影する時の「撮す」にも記述される。現代ではベンヤミン(Benjamin Walter1892-1940)が述べたように、「複製機能」「写真」との関わりやから「うつすこと」が語られることが多いであろう。写真を「うつす」という行為、シャッターを押して機械内部に「うつす」機能や、現像して「うつす」対象、さらにはネガの<版>をつくり、ポジへと「うつす」という過程もまた、<版>の機能として考えられる。しかし<版>の制作過程において、機械内部で処理され、「記録、再現が可能なうつすこと=写真」は、「イメージをうつすこと=描画的イメージ」や「対象との接触によってうつすこと=体感的転写」とは、身体的な意味から捉えた場合、異なってくるであろう。写真によって「うつされたもの」は、我々の脳の中で租借されたものではない。身体的感覚も薄いなかで「刻印」されている。(註18:拙稿「手掌表現と美術教育」(美術科教育学会誌「美術教育学」第16号、1995年)のなかで論者は、『手』の表現を通じて、原始の頃の表現と現代美術、幼児の作品を比較検討した。)
  <版>の起源をたどり、「美術」の問題で語る場合、<版>のどの意味に焦点をあてるかによっても内容は異なってくるであろう。論者は「ただ一つある元のもの=オリジナル芸術」だけが芸術の必要条件とは考えていない。ただ、「画」である必要もないことから、<版>の概念は、いかようにも拡大解釈がなされることから、以下のような<版>の概念に措定したい。
  ・接触による「うつすこと」の表現
  ・人間が意図的に「うつしたもの」。
  本稿で扱う「うつすこと」は、空間的距離なしに実体と接触された行為に限定した。また「刻印」したものという言葉には、自然発生的に起こった足跡などの「跡、印」、imprinting(動物行動学でいう「刷り込み」)も含まれることから、体感的な行為のもつ意味合いを強めた。「うつすこと」のあらわれはexpression、「うつしたもの」はimpressionという「刻印」の意味とも関連している。先章で述べたのように、print「複製」とは異なった観点によって<版>の表現のもつ意味を明らかにするうえでimpressionという言葉が関わってくる。

2.「うつすこと」による<版>

  旧石器時代の洞窟壁画から一種の<版>の表現がみられる。手に直接絵具をつけて岩壁に手跡をなすりつけたり、線で手形を囲んだり、絵の具を吹き付け、手の跡を白く残したものである。現在でも、初めて幼児が描画材料を持ったとき、本能的に似通った仕草をする。この身体を「うつすこと」の<版>はまた、現代美術でも度々みられる。クライン(Yves Klein , 1928ー1962 )は青い絵の具を女性に塗って布に押しつけた『人体測定』(図10)、ジョ−ンズ、 Jasper Johns , 1930ー)の試みた『皮膚のための習作』(図11)などである。この<版>による「皮膚」の表現は、目に見える姿を「うつすこと」、「描くこと」と如何に異なっているのか。
  目で見た姿を虚像的、象徴的なイメージで「記す」行為は、漫画や文字にも通じてくる。<版>の概念に含まれるprint、copyによる「記録」、「模写」、「複写」や「複製」の機能的な意味合いも関わってくるであろう。一方、魚拓や拓本、人間の手跡や石膏型など、面と面とが接触する行為による「印、跡」も、多数の「同じ様なもの」が生みだされたり、(手では右手の拓が左手の姿になるように)左右反転の「鏡像」とも関わっているが、「記す」描写行為とは異なり、「等身大」の意味合いが強く示される。実際に肉眼で<版>を見ることと密接に結びついているのである。
  1897年10月に開催された展覧会で、『鏡』というタイトルの版画作品集を出版したいとカタログに記し、自らポスターも印刷している。
  ムンクが、印刷用インキを版木に塗って、<版>の形を刷る代わりに、紙を板の上にのせて、その上からリトグラフ用クレヨンで摩擦した<版>である。彼がフロッタージュを用いる理由は、当初、版木を刷ったときの効果を調べるためであった。フロッタージュは原版と同じ向き、鏡写しの<版>ができる。『水浴する女』(図12)には、黒色や彩色クレヨンを使って、このようなフロッタージュを制作したものだ。しかし後にムンクは、色々なクレヨンを使って、本技法を版木の木目を活かした<版>の制作に関わるようになった。版木が、板を彫る、刷るための土台ではなく、描写で使えることを示したのである。木の年輪・節・枝のあと、木目や板の目が、ムンクの<版>に独特の雰囲気と生命を与えている。彼は版木の木の堅い部分の節や端の特徴を強調して、飽きることなく<版>の表現を繰り返した。
  ところでこれら直裁的な面と面との接触行為と関わる表現に、モダンテクニックがある。例えばデカルコマニーは、絵の具を塗った面の上に押し当てる。紙の上に絵の具をたらして2枚に折って開くと、シンメトリックで均等な模様が生じる。シュルレアリストの画家、オスカル・ドミンゲスが1936年頃、実験として発表したのが最初と言われている。またデカルコマニーとは逆に、表面に紙を当て、版上から鉛筆やコンテなどで擦って、凹凸をうつしとった表現のフロッタージュがある。葉脈や麻布、糸屑といった「あらゆる素材」の凹凸な表面上に、紙をあてがって転写する方法である。(瀧口修造(1903-79)は「摩擦画」と訳した。)美術史関係の文献では、ドイツ系のシュルレアリスト、エルンスト(Max Erunst、1891ー1976)(図13)が1925年に発見したと語られている。(註19:谷川 渥「芸術をめぐる言葉 Art Fragments92」『美術手帖』792号・2000年9月1日発行 / 美術出版社、p178エルンストは、『絵画の彼方』(1936)のなかで、1925年8月10日をシュルレアリスムの独創的技法のひとつ、「フロッタージュ」発見の日として記述している。)「物の表面」が、妄想を触発することを示したのはしかし、シュルレエアリストが最初ではない。ボッティチェルリ( Sandro Botticelli、1444/45ー1510)は、絵の具を含んだ海綿を壁に投げつけて、そこに出来たしみに「美しい風景」を見た。ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci 、1452ー1519)も、壁のしみに自然界の「無限の物象」を認めうると主張している。
  <版>の技法を俯瞰すると、シュルレアリストは、我々の根源的な妄想を、洞窟や版画の延長線上にある技法によって援用したともいえよう。シュルレアリスムの功績は、技法や知覚の発見ではなく、「概念」によって<版>の原理を確定したことにある。

3.ヴェロニカの「版」

(1)大野一雄
  十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼるキリストの前に現れ、血と汗で汚れたキリストの顔を、ヴェロニカ(veronica)という女性が手布で拭いたというエピソードがある。その時、手布にキリストの顔が<版>として布にうつしだされた。この「聖顔布」は、キリストの遺骸の版、「トリノの聖骸布」とともに、真贋を疑われつつも、キリストの実在の証として西欧では古くから崇敬を集めてきた。聖骸布も聖顔布も<版>であり、実際に体、対象に直に媒体、媒材を接触させて、うつし取ったものとされている。そしてイエスの「拓」は、左右が逆像になっている。うつし取られたものは「鏡像」である。ビザンチン美術でイエスの顔を描いた聖画像(イコン)が、横向きではなく、全部が左右対称の正面で描かれてきた背景には、聖顔布が根拠になっているという説もある。(註20:veronicaの語源は、真の画像(vera・icona ヴェーラ・イコーナ)とも呼ばれる。) 仏教でも仏足石の伝承が残されている。古今東西、実在を伝える<版>に、鑑賞者はリアリティを感じ取ってきた歴史がある。<版>を通じて、そこに現存しない対象(モデル)を予感するには、<版>となった者を求める気持ちが重要であろう。<版>には必然的に「誰を描いたか」というモデルの存在が投げかけらてくるからである。
  近年、論者の渡辺は、身体の表層、肌膚に関心を抱くなかで、作家本人や知人など、多くのモデルから直接「型」を取った造形作品を制作し発表してきた。それを今年、一連の「veronica」と題して二つの展覧会を発表した。
  一つは『 渡辺晃一×大野一雄 疾走する肌膚』展(川口現代美術館スタジオ、2000年)である。本展は、渡辺が1998年以来、舞踏家の大野一雄(1906〜)の「身体」から記録し、制作してきた「石膏型」が約20部位、80点の作品が展示した(図15、16)。大野一雄は、日本オリジナルな舞踊「舞踏(Butoh)」を土方巽(1928-86)とともに創始した現役最高齢の舞踏家である。国際的に熱狂的な愛好者が多数いるように、ある種「信仰」に等しい尊敬の対象となってきた。大野一雄氏の舞踏を間近に見たときから、論者は彼の「身体」に魅了されてきた。本展では、大野一雄氏の「身体」を媒介に、美術展という交流の場において、一個人が会場に訪れ、直接作品に触れる機会が設けられた。(この企画は、現実に会場で作品と大野一雄が絡む場面が想定された)
  一方、論者は数年間から、農業や漁業などに長く従事してきた人達、日本文化の国際的な発信に寄与してきた者をモデルにした「ヴェロニカ・プロジェクト」も展開している。(図17.18)具体的には劇作家の唐十郎(1940-)、女優の栗原小巻(1945-)、作曲家の三枝成彰(1942-)、ピアニストの山下洋輔、詩人の吉増剛造(1940-1939)文化人類学者の山口昌男(1931-)、バレーボール選手の中垣内祐一(1967-)、バスケット選手の萩原美樹子(1970-)、新体操の松永里絵子(1979-)他、俳優や演劇関係者、音楽家、詩人や思想家、科学者、スポーツ選手など多数、各領域で活躍している者の「手」から直接、「型」や「拓」をとる制作を行い、多数の「手」を並べた展覧会を開催した。

(2)媒体としての肌膚
  論者はなぜ手の「型」や「拓」などの多様な<版>による表現技法で制作しているのか説明したい。その一つに、<版>を通じて手の拓をとったり、石膏型を制作するためには、モデルは一定時間、静止して素材と触れ合う必要がある。それは遠方から写真で撮った芸能人のプロマイドを所有したり、写真を見て絵を描く行為とは異なった意味をもっている。作者とモデルとの間には、必ずお互いの同意によって、一つの関係が成立しなければならないからである。論者は、<版>の作品を介して、自分とは異なった表現活動をしている者たちと出会い、日常「美術」と接していないような人々と作品が展覧会場で関わったり、多くのモデルが会場に直接訪れることによって、マスメディアとは違った個人との身体的なコミニュケーション、「身体」との接触する機会を提供しようと考えた。「生きた身体」を通じて、作品を創作する過程や展示する行程、モデルの存在との密接な関わりを示すことで、芸術表現のもつ根源的な意味を問い直そうとしたのである。
  また「手」を対象とした理由は、「手」は自己や他者の身体を客観的に見ることのできると同時に、個人にたいする意識を深めることにも通じるであろう。履歴書に記された文字や言葉による表現と同様、「手」は、個人の物語、メッセージを伝えている。また、「手」は顔の表情と同様に、心の動きを示すうえで重要な役割を果たしてきた。「手のかたちは心のかたち」 という言葉がある。それは単に手の仕草や表情だけではなく、指紋や掌紋、指や手掌の姿など、等身大の身体のもつ様々な魅力にも示されるであろう。「型」や「拓」には、モデルの「等身大」の大きさ、「肌」の皺とか肌触り、表面の毛穴や皺を、写真とは違った方法で残し、作品を直接見ることの意味を強くアピールできる。論者の「拓」は、イヴ・クラインの様に絵具を単に塗ったものではなく、<版>の接触を繰り返すことで、細かい毛穴や皺が写し取られている。
  しかし一方で、型を取ると「肌色」や「柔らかさ」が削り落とされる。拓には「身体」の厚みと「輪郭」が失われる。どんな<版>の表現をとっても、抜け落ちてしまうものがある。それは制作者やモデルの「思い」や「記憶」とも結びついている。「形」にすると逆に抜け落ちてしまうという逆説だ。ヴェロニカの聖顔布にキリスト自身の顔や表情の「うつし」がないのと似通って、「聖書」にもキリスト自体が執筆していないというパラドックスがある。キリストのことを多くの人が語っているが、それぞれの見方にずれがある。
  展覧会場に残された手跡がある。そこには「誰か」という問題が生じてくる。<版>を通じてモデルと鑑賞者が共有したり、「思い」を自分の中に蓄えるできるかという距離の置き方が問題になってくる。椅子に座った時の尻とのすき間にように、接触行為から生じたぬくもりや記憶というものに、論者は興味を感じている。それは逆説的に、作品を制作し、残らないものである。大野一雄が会場で踊りながら拓した<版>には、なにか一瞬の「思い出」、ある種の記憶の痕跡のようなものが含まれていた。ヴェロニカの聖顔布が内包する<版>の概念を、制作の方法論やコンセプトの根底に論者が関わらせた所以である。「そこに存在した」という強烈な刻印を、<版>はつくり出す。

 

[back] 1  2  3  4  5  6 [next]

▲top of page
 
ASCA the act studio of conntemporary act
絵画研究室 渡辺晃一ホームページ