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版の現在
「 版 」 の概念とその可能性について
− 現代・美術における「身体」との関わりからの一考察 −
福島大学 渡辺晃一 / 福島大学大学院 荒木久美子
第4章 <版>による触れ合い

1.「生体」との触れ合い

  2000年 の 5月3日 に、『Skin Scape/<版>の芸術』と題して先の「大野一雄」展において、論者は美学者の谷川渥氏の講演会を企画した。本展は美術の制作者、舞踏家、美学者との関わりによっても成り立っていたのである。谷川は西洋の芸術理論の中で「鏡のメタファー」と同時に画像、鏡像がルネサンス以降、積極的な意味で組み込まれてきたのに対して、芸術の「皮膚論」という概念に着眼し、<版>の問題にも焦点をあてて論じてきた。例えば谷川渥は国際的に早くから「聖顔布」と現代美術の作品との関係を指摘し、<美的表象>に関わる著作を多数発表してきた。(註21:『鏡と皮膚』(ポーラ文化研究所)、『文学の皮膚』(白水社)等)。また<版>という概念が、モダニズムの原理とも重なって、近代・現代芸術の中で重要な役割を果たしたことも指摘している。そして近著の『イコノクリティック』の「造形の論理」の章に、「瀧口修造と版の精神」という文章がある。本著の中で谷川は、「面と面との接触を基本とするデカルコマニーを、しかも瀧口は人間関係において実践したふうである。・・・瀧口は、自身、一個のすぐれた版なのだ」(49頁)と語っている。
  美術において<版>は、「絵画」などの平面だけではなく、様々な分野に用いられる幅広い概念である。しかし<版>を語るとき、気を付けなければならない問題もある。「型」の概念である。(註22: 筑波大紀要)先節で論者は「石膏型取り」という言葉は用いた。しかし「型」という言葉を丁寧に扱い、「版」と「型」との主従関係を明確に示すべきであろう。「型」は同種類の物、形式を幾つも作るための基となるもの、その「形式」、「種類」を裏付ける言葉でもある。a model 、a mood 、a pattern 、a form、 a type、castなどに<版>とは違う英訳がなされる。その背景から「型」という言葉は、大量に複製を行う「基」、形をAからBに「うつしかえる」という意味が含まれている。しかし本稿は、printよりimpressionの意味合いから<版>の概念を扱っている。つまり「一点もの」が対象となっている。「型」は、「ひと」と「もの」との接触する行為を生み出すための「技法的意味合い」と前置きしたい。「型」を作るために「版」を制作したのではなく、「版」を獲得するため「型」を用いたのである。
  現代、肉体そのものから「型」を制作する美術家は多い。特に有名な芸術家としては、ジョージ・シーガル(George Segal 1924-)   、 、図19)があげられよう。実際のモデルに、包帯石膏をあてて型取りを行った。またゴームリー(Antony Gormley 、1950ー)、アバカノヴィッチ(Abakanowicz 、1930ー)、キキ・スミス(Kiki Smith 、1954ー)、マーク・クイン( Marc Quinn、1964−)、ジョゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penonee、1947ー)のように、肉体を型取り、ポジとネガという<版>の表現手段を用いている作家も世界的に多数いる。例えばこれら表現の源流に、デュシャン(Maecel,Duchamp 1887-1968)   、)の『雌のイチジクの葉』(図20)があげられる。女性が座った跡を、椅子のようなオブジェの「型」によって提示したものだ。しかしこれらの「皮膚」の刻印は、対象となったモデルが、作家個人や身近な友人と記されている以外、匿名である。身体は俯瞰的に眺められている。つまり制作者と作品、制作者と鑑賞者、作品と鑑賞者との関わりが重要であり、主体となった<版>は見失われているのである。

2.「肌」と「肌」の触れ合い

  「芸術家の役割は仲介者であり、これが非常に意義のあるものだ」と、ムンクの書き残したメモや著作の中で、何度も強調されている。感情や苦悩などをその作品の中に真に描き出すことができ、それが見る者に理解されるならば、芸術家は、絵画を媒体として、人生・生命その他の問題に対する洞察や理解を、他の人々にも与えることができると考ええていた。
  テレビの画面越しに「見られる」身体は、視覚、聴覚的な情報によって、遠距離から一方通行で伝達されている。マスメディアを通じて受け取られる「身体」からは、等身大の大きさ、触覚的な「厚み」、皮膚に刻まれた個人の情報は抜け落ちる。しかし制作者とモデル、鑑賞者が、同じ場所、時間に出会い、接することによって、特権的な身体となり、人々と新たな関係をも生み出すことが可能であろう。そして相手は「誰か」という問題は、制作者と作品、モデル、鑑賞者との間に、相互の「絆」を生じさせる。
  <版>は「肌」と「肌」の触れ合いでもある。それは全身に広がった「皮膚」とも少し違う。日本語の「皮膚」は物質的な意味があるのに対して、肌は対他性、他者との関係性が含まれる。「肌が合う」「肌を許す」という言葉に示されるように、「肌」には閉ざすと同時に開くというメディア的な働きもある。「肌」は非常に性的で個人的な存在を内在した概念である。しかし「肌」という言葉は、英語で「皮膚」と同じskinに訳される。
  <版>のもつ多義的な概念は、「肌」と同様に、西洋にはない日本固有のイメージとも考えられる。日本語が即座に一つの訳語と合致すると思う方が不自然であろう。大野一雄のDance、舞踏が、「Buto」と訳されるように、日本的な概念が国際化した言語もある。本稿で述べる<版>を、あえて「Han」と英訳した理由である。
  ムンクの作例を見ると、<版>の技法の根源には、日本の板目木版との関わりが示されていた。またイヴ・クラインは、日本に滞在した折、魚拓を知ったと言われている。 現実の「大きさ」を人間の身体にあてはめた言葉が、等身大の「肌膚」である。生きていることを表明し、刻印、記録してきた<版>によって生じる物理的な「身体」と関わり、「絆」は、当然、心理的な「肌膚」とも密接に結びついてくる。
  本稿では「ひと」と「ひと」、「ひと」と「もの」において関わってくる結節点、絆を、<版>の概念によって提起し、造形作品を通じて論じてきた。しかし一方で「型」は、作品を瞬時に生みだすオートマティックな機能も内在しているため、知識や構成力、描写力などの技術との関わりが薄く、そのため技法にこだわるあまり、イメージも疎かになる危険性もはらんでいる。使用する技法の必要性や姿勢が強く問われる所以である。
  「もし障碍物があったら、肩で体当たりをするために君は君の肩を売りとばすであろう。君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ・・・・人間というのはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとって絆だけが重要なのだ。」ポンティ(Maurice Meleau-ponty )はサン=テグジュペリの言葉を用いて、『知覚の現象学』の最後を結んでいる。(註23:   )

 

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