4.コラボレーションとしての舞踏と美術
5月20日に、東京の世田谷パブリックシアターで「舞踏」の公演を見た。「舞踏」と聞くと「暗黒舞踏」という言葉と重なって、白い粉につつまれた異様な肉体が、なにやらおどろおどろしく、踊っている仕草を連想する方も多のではないか。山海塾という舞踏グループは、まさしくそのような「舞踏」を体現する舞台を演じていた。しかしその踊りは、おどろおどろしいと言うよりも、静寂な空間の中で、力強く重力を感じさせるような、緊張感のある舞台である。
『卵を立てることからーウネツ卵熱』と題した公演は、舞台上に二つの楕円形の卵が効果的に演出されていた。舞台の中心に設置された卵の一つは、天井から宙づりにされ、もう一つの卵は、波紋のある台座の中央に立てられている。舞踏家はときには手足を縮めて胎児のような姿をしたり、卵と絡む中で舞台は進行していく。さまざまなイメージを触発された。
天児牛夫、岩下徹、蝉丸らによる山海塾の踊りは、西洋の舞踊たとえばクラシックバレエやモダンダンスなど、西洋から生まれた踊りが一般的に宙に浮く、つまり重力に反した動きを見せることが多いのにたいして、重力と積極的に関わるというか、地と密に結びつくような動きをしている。そしてこのような踊りは、「舞踏」と総称され、日本独自のダンス(舞踊)として国際的に評価されている。この「舞踏」という言葉を創始したのは、土方巽である。土方のもとから輩出した「舞踏家」には、山海塾の他にも、田中民、麿赤児率いる大駱駝館が今日、世界のbutoh家として国際的に活躍していまる。そこで今回は、土方巽を通して、このような舞踏と美術との関わりを伝えていきたいと思う。
土方巽は1928年、秋田生まれ。同じ秋田生まれの石井貘に影響を受けた後、1960年代以降、大野一雄、大野慶人などの同伴者とともに、積極的に公演活動を展開した。そして舞踏は、各界の進歩的、前衛的な文化人達の支持を受け、開花していった。精力的に展開された土方の舞踏の表現の特徴の一つに、そのような同時代の美術や音楽家、文学者たちと密接的な関わりがあげられる。河原温、池田満寿夫、横尾忠則、中西夏之、赤瀬川源平、オノ・ヨーコや小杉武久、瀧口修造、澁澤龍彦、三島由紀夫など、多くの芸術家たちが、舞台美術やポスターや、時にはステージに引きずりだされた。
ここで美術と舞踏との関わりについてさらに話していくと、まず土方は 肉体の存在について美術家から学んだとも言わいる点があげられる。体の動きのよって表現し、動きにのみとらわれがちな「ダンス」に対して、美術ではオブジェ化することによって肉体を再発見してきた歴史がある。オブジェとは、日本語で「物体」という訳されるが同時に、客観的、俯瞰的な対象という意味が連なっている。土方は、美術家に接近することによって、静止したオブジェ、空間の中に配置された肉体の存在を強く意識したとも言えるであろう。
「舞踏とは、命がけで突っ立っている死体である。」
「踊りと描くという行為の類似、そこまでいくと、もう一歩ですね」
と土方巽は述べていた。絵具や絵筆などの物質と肉体との戦いを想起し、舞踏と重なる意味を美術制作の過程のなかに土方は読みとっていたともいえよう。結果、舞踏は、静と動、美術とダンスとの境目のないよ世界をも生みだしていった。
一方、舞踏は美術に影響を受けた一方で、美術は土方巽たちが創始した舞踏に、影響を受けた面も多々あった。
たとえば横尾忠則は、次のように語っている。
「土方巽は水が枯れたポンプに流す誘い水であった。土方巽の誘い水がぼくの無意識に直接流れ込んだ。彼の無意識とぼくの無意識が溶け合って、突然変異のポスター『バラ色ダンス』が出来上がった。この作品によってぼくの様式はこの日を境に一変した。昨日と今日では世界が違って見えた。この作品によってぼくは自分に目覚めた。・・・」
また近年、池田20世紀美術館では、「美術と舞踏の土方巽」展が開催され、土方巽との関わりから生み出された美術作品が多数展示されていた。土方巽や大野一雄たち、舞踏家と、彼らを取り巻く美術家たちの活動は、まさしくコラボレーションという名称に値するものであった。
最近、よくコラボレーションという言葉がよく用いられいるが、本来、コラボレーションとは、単に複数の者で一つの作品を作るという意味あいではな(ましては誰かの写真を見て絵画を描くような者でもなく)、様々な領域で活躍している者たちが、互いに影響を与え合いながらも、総合的に一つの空間を作り、時間を共有するという意味あいをもっている。相互交換の場を創り上げた土方の「舞踏」は、まさしく芸術におけるコラボレーションという言葉の代表的な存在であろう。
よく現代美術では、これが絵画か、彫刻か等というように、それを区分する中で理解しようとする言葉を聞く。しかし大切なのは、何をどのように伝えたいか、作者の想いであり、そしてそれを表す手段として、どのような表現を用いるかが問題である。旧来のダンスで括れない、新たな言葉、「舞踏」という表現が生まれたように、新たな表現とは、本来、新たな言葉をも生み出すものなのかも知れない。
三島由紀夫は
「私は予言者ではないが、二十世紀後半になって、再び芸術各ジャンルの交流と綜合の時代が復活するという予感がある。」
と語っている。
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