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『現代美術の皮膚』にみる日本の美術展のPoorな限界/やはり二元論を超えられず・・・。

大阪の国立国際美術館で開催中(2007年10月2日(火) - 12月2日(日))の『現代美術の皮膚』展についてコメントをいただきました。ご紹介します。

Q、今回の展覧会のテーマについてどうお考えですか?

A、 まず率直に言って、なぜ今ごろ「皮膚」なのかという印象を持ちました。もしくは日本でもやっと「美術の皮膚」について語る展覧会が開催されたのに、少し残念な内容の展示だったというのが実感です。

Q、 美術を「皮膚」というキーワードで括ることは、新しいことでは無いのですか?

A、 ええ、美術史や美学、芸術学のなかでは、すでに幾度か「皮膚」という言葉は登場しています。美術の学会や美術関係者の間ではよく知られた主題ですよね。ここ数年は、地方の学生すら、論文に書いている状況です(笑)。

Q、日本の美術関係者が「皮膚」を主題にしたのはいつ頃でしょうか?

A、 出版物としては1990年代にいくつか出版されています。港千尋氏の『考える皮膚?触覚文化論』 (1993)や、谷川渥氏の『鏡と皮膚』(1994)、『文学の皮膚』(1997)などが代表的な文献としてあげられるでしょうか。また赤瀬川原平氏も『鏡の町皮膚の町』 (1976) を執筆されていますよね。渡辺晃一さんも「美術の皮膚論」を執筆されていると伺いましたが・・。

K、はい、1990年の卒業論文で「皮膚」をテーマに絵画や彫刻を考察しました。『テクストの皮膚とイマージュの皮膚』というタイトルで論文を執筆しました。もともと絵画の表面、マティエールに対する問題提起から生じてきたものなのでした。皮膚という境界線、輪郭線と画面を覆う表面、絵の具との関係を、視覚と触覚との関わりと重ねたものが学位論文です。その後、修士論文では、『テクストの皮膚とイマージュの皮膚II』というタイトルで、解剖学や「空間と時間」認識の問題と結びつけ、執筆しました。

A、「皮膚」というタイトルをつけられていますが、修論を書かれた頃、谷川氏をご存知だったのですか?

K、いいえ、残念ながら。修論は1992年の執筆だし、まだ知りませんでした。その頃から、谷川先生と出会っていれば、修論の内容も充実していたと思うのですが(笑)。『鏡と皮膚』(1994)を読んで、似た問題を提起されている美学者の先生がいると感激しました。その後、谷川先生にはじめてご覧頂いた展覧会も『媒体の皮膚』というタイトルでしたよね。

Q、「皮膚」というテーマが谷川先生との出会いだと。

K、「太陽」という雑誌の「BODY」という特集号でも、谷川先生が「皮膚をめぐる現代美術」という記事を書かれています。そのときのインタヴューが、先生とはじめて直接お話する機会ともなりました。

Q、この頃、「皮膚」を特集した記事は秀逸ですよね。ところでこのような「皮膚論」は、今流行の「表象文化論」が生まれた時期とも重なるのでしょうか?

A、「美術の皮膚論」と「表象文化論」との関係は、別々のところで生まれたものでしょう。一致するとは言い難い。ただ、同時代の似通った問題を提起する部分は多々ありますよね。『身体?皮膚の修辞学 (表象のディスクール) 』という本はその好例でしょうか。因みに、東京大学で「表象文化論」が学科として発足したのは1986年。大学院の講座専攻も1989年に設置されました。その後、「表象文化論」は科学研究費の重点項目ともなっています。

K、この頃、私も「表象文化論」に関わる研究で、科学研究費をいただきました。丁度、美術における「皮膚論」と「表象文化論」を重ねるような内容です。

Q、ある新聞の記者が、今回の大阪の展覧会について、「皮膚」をテーマにしたのはタイムリーだと語っていましたが、いかがでしょう?

A、 世界的にみると、むしろ日本では遅咲きかな。新聞記者の方は、何も知らないのでしょう(笑)。実際、2000年頃、SKINをテーマにした展覧会が、西欧で大きなブームとなっていますよね。

K、 フランスの『皮膚の表面に』や、イギリスで2001年に開催された、「Second Skin」展などもあげられますよね。この前後に、「皮膚」や「表面」というテーマの企画が世界中で大きなキーワードになってきた。日本でも国立西洋美術館において、2001年、シンポジウム『皮膚の想像力』が開催された。その時、谷川先生はパネラーとして参加されていましたよね。

A、 日本ではこれまで、ただ「身体」や「人間像」をテーマにしたものが多かったのですが、「皮膚」というテーマを扱った展覧会は、日本では見られなかった。やっと波がきた印象です。個人的に作家の方々が展覧会のタイトルとして扱ったものがみられるぐらいでしょうか。

K、最初、「皮膚」という言葉を私も使ってはいましたが、1995年頃からは、何となくこの言葉に違和感があり、「肌」という言葉を使用しています。1995年、川口現代美術館で企画して頂いた個展も『Veronica 肌膚の厚さ、熱さ』展 (1995)でした。その後、2000年に大野一雄さんをモデルに開催したのも、『疾走する肌膚』展です。

Q、今年、コバヤシ画廊で大野慶人さんをモデルに開催した展覧会も『肌の間』でしたよね。

K、はい。「皮膚」と「肌」は英訳すると、同じ「SKIN」になってしまいます。しかしこの二つの言葉には、大きな違いがあると思うのです。そこに日本の風土的な問題ともつながると思っています。

英国で私は「Second Skin」展を見てきました。これらの展覧会は、美術を単に「美術」の問題として扱うのではなく、人の記憶や自然科学との接点など、「美術」という領域そのものに揺さぶりをかけつつ、自らの国の文化論を再構築している点が興味深かった。

A、 そうですね。先ほど私が、国立国際美術館での展覧会を「残念だ」と言ったのは、そのような問題提起が日本の展覧会では乗り越えられていない。むしろ後退しているように感じた。

K、 私もむしろSKINを「皮膚」と訳さず、SKINのままに残しとけば良かったのに、という印象の展覧会でした。

A 、おそらく出品した外国の作家にとって、あの展覧会は、代表作になるような「深さ」を持っていない。ただ日本でも展覧会できたという印象ぐらいでしょうね。日本でやっと「美術の皮膚」の展覧会が開催されたと思ったのに、出品作は奇をてらったような作品が多い。

Q、実際、私も展覧会の場所を知ろうと思って、『現代美術の皮膚』というキーワードで、ホームページを研削しましたが、キモイとか言うような発言ばかりがブログに残されている。あと「皮膚と美術」というキーワードで渡辺さんの展覧会にもヒットした(笑)。美術館サイドは、どのような意図であのような展覧会を企画したのでしょうか?

A、わかりませんね。ただ一つに、SKINブームの流れの一つであることは事実でしょうね。今年、日本の展覧会はSKINブームと言ってもいい。今年、2月17日?4月8日にKDDIデザイニングスタジオ(東京・原宿)で「au design project MEDIA SKIN展」が開催されました。また「Skin + Bones-1980年代以降の建築とファッション」展が、6月6日?8月13日、国立新美術館で開催されたばかりです。

Q、 私は今回の『現代美術の皮膚』展は、てっきり谷川先生が企画されたと思っていたのですが。

A、残念ながら違います。出品者の顔ぶれをみればわかるでしょう(笑)。

ほとんどミーハーな作家と身内で集めた感じです。「美術の皮膚」の表層、表面だけをなぞったような展覧会でした。私が知らなかった作家は、唯一、日本人のHさんだが、あまりにも稚拙で月並みな表現で、以前、大学の学園祭で見た作品と似通っていましたね。またギーガの作品とそっくりな脊柱のオブジェもありました。あたかも「美術雑誌」が扱っている美術家しか集められなかった時点で、「皮膚」へのこだわりの浅さがわかります。

K、なぜ、谷川先生に執筆を求めなかったでしょうね。展覧会の内容が決められた後、講演会のご依頼があるまで、何も相談されなかったんでしょう?

A、 おそらく文献を読んだり、インターネットで調べることもなく、急遽開催されたような内容ですね。

K、私は、谷川先生が講演で話されていた「美術の皮膚論」が、とても奥深く、深淵で、今後の可能性に満ちているようにも感じましたが。

Q、受け取る側の問題もあるのでしょうね。

A、 実際、講演後に会場から質問された内容には思わず苦笑してしまいました。

Q、 「スーパーフラットとの関わりは?」、「リストカットについてどう思われるか」という質問でしたよね。

A、 谷川氏は、琴線に触れないので重ねて考えたこともなかった。何の興味も感じない作品だとズバリ。

K、「スーパーフラット」は、三次元の西洋美術に対峙して、二次元の平面性を前面に打ち出すような意見ですよね。遠近法の絵画と対峙し、絵巻物やマンガの平面の文化が、日本の伝統などと・・・。日本人の顔を見て、フラットだと語っているようなもの。西洋人から見た都合の良い日本の美術論が内包されている。アメリカのポップアートがいかに優れているかを後押ししているような印象も拭いきれない。

A、大阪の「皮膚」展もまた、ポップアートとモダニズムに囚われた「皮膚」という印象。

K、私が「皮膚」ではなく「肌」という言葉を使うようになったのは、日本人の顔はむしろ「フラット」ではなく、「肌理」が大切だとする考えから。今回の展覧会のように、「皮膚」という言葉を使うと、あのような西洋の「SKIN」作品が羅列されるかもしれない。「SKIN」は、即物的なオブジェの「皮膚」や、心理学的な「触覚」の問題ばかり浮上してくる。ある種、肉体と精神の二元論的な問題に留まっていますよね。

 しかし「肌」というと、もっと個人的で生理的なところにも意識が向く。「肌理」が日本の文化で大切なものだと考えると、「皮膚」という言葉は、あまりに即物的すぎる。

 「舞踏」を「BUTOH」、「間」を「MA」と訳すように、「肌膚」を「KIFU」と言い換えてもいい。そこで私は日本の文化を「スーパーフラット」というより、「スーパースキン=“KIFU”」と考えてきた。

Q、そのような「SKIN」の考えは、谷川氏の「版」という言葉とも重なりますよね。

A、版もまた、「HAN」です。プリントやキャスティング、インプレッションを包含した言葉です。

Q、では大阪で開催されていた「現代美術の皮膚」展を、日本文化と重ねたとき、欠けていたものは「肌」や「版」だと?

K、「肌」という言葉の持つ、「艶」と「暖かさ」。日本人がこれまで最も大切にしてきたものが、全く見られなかった。

A 、即物的な皮膚と偏在した感覚器官「触覚」に置換されていた。悍ましい屍体と肉体不在の虚無な感覚のオンパレード。生々しい「皮膚」が充満していた。これが国立国際美術館の考えてきた現代美術なのでしょうね。残念ながら。

Q、では具体的に、もしあなた方が「現代美術の皮膚」展を開催するとしたら、どのような作家を扱いますか?

A、私はまず渡辺晃一さん(笑)、あと吉江庄蔵さん、舞踏との流れも考えたいですね。その他、ベルーシュカ、マリナ アブラモヴィッチ、草間彌生かな。

K、私は、Marc Quinn、Antony Gormleyが第一に思い浮かびました。他に、Jenny Saville 、Ron Mueck、Keith Coventry、Lucian Freud、石内都、戸谷成雄、大野一雄などですね。

とにかく谷川先生が企画した展覧会を見たかったというのが実感です。今度こそ、「深さを宿した皮膚」の展覧会が観たいですね。

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