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現在、剣道の専門用語としては「防具」という言い方はなく、「剣道具」というのが正式名称である。
しかし、「防具」という言い方も慣用的に用いられているので、以下、防具(剣道具)として論をすすめる。
そこで、防具(剣道具)の歴史を述べる前に、まず防具・剣道具という用語の変遷について明らかにしておこう。
語の由来
「防具」という用語は、江戸時代には使われた形跡がない。それに相当する語としては、「道具」もしくは「武具・具足・竹具足・竹鎧」といった語が、それを表わすことばとして用いられていた。
はじめて「防具」という語が用いられたのは明治になってからで、軍隊組織をフランス式に改めようとしていた陸軍において最初に用いられた。
明治十七年(一八八四)、フランス軍事顧問としてド・ビラレ、キュ―ルらを招聘し、フランス式の剣術・銃剣術をわが国の陸軍軍人に指導した。軍事顧問団が帰国したのち、その集大成として明治二十二年(一八八九)に、わが国初の『剣術教範』(総則、第一部正剣術、第二部軍刀術、第三部銃剣術)が制定された。その教範に、銃剣術の「器具ヲ大別シテ銃及ビ防具ノ二種」とし、「防具ハ仮面・胴(垂れつき)・肩当及ヒ甲手ノ四種ヨリ成ル」と、はじめて「防具」という語が出てくる。これが「防具」という語の初見ではないかと思われる。
つまり、フランス式剣術・銃剣術を日本人に教えるために、防身用具の略語として「防具」という造語がつくられたのである。
この『剣術教範』は、明治二十七年(一八九四)、明治四十年(一九〇七)、大正四年(一九一五)と三度改正され、その都度日本式の道具や技術へと改良されていった。三度目に改正された大正四年以降は、軍隊剣術用の道具のうち、両手軍刀術のものは基本的には垂れつき胴であるが、一般の剣道用の道具と同じものを使用してもよいようになった。
これにともない、軍隊剣術用語であった「防具」ということばは、逆に一般の剣道の用語としても用いられるようになり、昭和になると、防具といえば剣道の「面・小手・胴・垂」をさすことばとなっていったのである。
これが戦後も受け継がれ、撓競技から剣道の用語へと使われていった。 昭和二十七年(一九五二)、全日本剣道連盟が結成された。翌昭和二十八年に制定された「全日本剣道連盟試合規程」には、用具の条項に、「防具は面、小手、胴、垂を用いる。」という条文がある。この規程により、「防具」という語は、剣道の専門用語として再び用いられるようになった。
しかし、それでもまだ剣道の専門用語の域を出ず、一般用語としての広がりはなかった。
例えば、諸橋轍次著『大漢和辞典』(大修館書店、昭和三十四年)には、「防具」という語は載っていない。このことからみても、「防具」という語は明らかに近代の造語であるといえよう。また、新村出の『広辞苑』(岩波書店)の初版(昭和三十年)にも、「防具」という語は載っていない。この『広辞苑』に「防具」という語が載るのは、第二版(
昭和四十四年)からで、「剣道で、面・胴・腕などをおおって、相手の攻撃を防ぐ道具」と書かれている。第三版(昭和五十八年)からは、「剣道やフェンシングなどで、面・胴・腕などをおおって、相手の攻撃を防ぐ道具」と、フェンシングが加わっている。 いずれにしても、昭和四十年前後に「防具」といえば、剣道の道具という認識が一般的にも浸透していったことがわかろう。
その後、昭和五十四年(一九七九)に「剣道試合規則・剣道審判規則」が大幅に改正され、試合規則の第八条に「剣道具は、面・小手・胴・垂を用い、服装は、稽古着・袴とする。」と定められて以降、「防具」という語は用いられなくなり、「剣道具」が正式名称として用いられるようになった。ちなみに、「稽古着」という語も、平成七年(一九九五)の「剣道試合・審判規則」から、「剣道着」という言い方にかわったことを付け加えておく。
そんな、剣術の道具→防具→剣道具とかわってきた用語の変遷を念頭に置きながら、防具の変遷を眺めてみよう。
防具の発生
剣術の防具の発生については、これまで一般的に宝暦・明和年間(一七五一〜七二)であるといわれてきたが、この時期に急に発生してきたものではない。流派武芸の完成した寛文・延宝年間(一六六一〜八一)ころから、すでに安全性を確保するための防具が部分的ながら工夫されはじめていたのである。
ここでは、そうした事例を記した史料を紹介しながら、防具の発生について述べていくことにする。
ただし、この時期の史料は非常に乏しく、詳細に論ずることは難しい。そんな中で、一二事例をあげれば、山鹿素行の随筆「綴話(自万治三年・至寛文元年)」(広瀬豊編『山鹿素行全集・思想篇第十一巻』岩波書店、一九四〇年)に、「竹刀剣術の作法も、・・・・古は具足を着、鉄の面をあてて、思う如くに勝負をして」と書かれている例がある。また、寛文三年(一六六三)二月、紙屋伝心頼春(直心流流祖、神谷伝心斎直光ともいい、紙屋は晩年の称である)が、大沢友右衛門に出した『紙屋伝心六十七歳ニテ一流見出シ直心流ト極致御伝授ニ付改兵法根元』(稲川故吉写本)に、「他流ニテハ稽古之節、皮具足、面思頁サマサマ道具ヲタヨリ稽古ス。直心ノ上テハ、イササカ身ヲフセク道具用不申」と記されているように、直心流以外の流派、具体的には何流かわからないが、すでに江戸時代のかなり早い時期に防具を使用しはじめていたことを裏付ける例もある。 さらに、天和二年(一六八二)、菱川師宣によって描かれた『千代の友鶴』に、タンポ槍を持った若者と、面具・垂付胴をつけ薙刀を持った若者とが仕合をしている絵がある(
写真1参照)。
この絵が描かれた年代が十七世紀後半、江戸時代中期に相当する。
また、この絵に画かれた防具は、面具に布団や突垂はなく、顔面を覆うだけのもので、竹製のようにもみえる。胴は垂付胴で、これは明らかに竹製、のちの竹具足と同じもののようである。菱川師宣はその後も同じような絵を『浮世続』(天和四年)に描いているところをみると、江戸時代も相当早い時期にはすでに防具を使う流派があったことをうかがわせるものである。
槍術用の防具
それでは、剣術と槍術とではどちらが先に防具を着用しはじめたのであろうか。このことについて下川潮は、『剣道の発達』(大日本武徳会本部、一九二五年)において、斬撃を主とする剣術と、刺突を主とする槍術との技そのものの性質から考えても、また稽古上どちらが危険であるかということから考えても、面や胴のような防具は、槍術稽古において産み出されたものを剣術が応用したものであろうと、槍術用防具の剣術流用説を述べている。
しかし、江戸時代初期のころの武芸は、すでに剣術や槍術に分化し、単独の流派を名乗ってはいるが、教習の過程では「外物」として、槍術ならば剣術を想定した稽古を必ず行なっており、必ずしも槍術が先で剣術がそれを流用したと断定することはできないであろう。
したがって、ここでは剣術が先か、槍術が先かという議論には深入りせず、槍術の防具の変遷と特徴のみを述べ、剣術用の防具と比べることに止めておく。
なお、前述した菱川師宣の絵(写真1)には、竹製ではないかと思われる面で、面布団と突垂のない顔面のみを覆う面具が描かれている。また、小手はつけていない。同じく菱川師宣の描いた『浮世続』でも、小手は画かれていない。

ところが、明和五年(一七六八)版、柏淵有儀の『芸術武功論』に画かれた正木流槍術防具は、「鉄護面」に頭部・咽喉部を防護する布団をつけた面と、垂付の竹鎧(竹胴)、腋下を護る防具、腰を護る綿護腰とが画かれている(写真2参照)。

この百年の間に面は鉄製の強固なものに改良され、咽喉部を防護する丈夫でかなり幅の広い突垂と面布団が付着されたことがわかる。
そのことは、幕末期の「風伝流槍一切道具図」をみてもよくわかる。咽喉部については「此よたれかけも竹具足の仕立のごとくなり。又是をなめし皮にてもよし。」と書かれているように、面金と同じ幅の竹やなめし皮で作った突垂が付いている(写真3参照)。「
風伝流槍一切道具図」は、幕末期の写本(年不詳)であるため、面や竹具足の他に、藁でつくった小手と脛当の図も加わっている。小手は対剣術用であろうし、脛当は対薙刀用であろう。つまり、槍対槍の仕合ばかりでなく、剣術や薙刀など異種仕合をも想定して防具が工夫されていたことを物語っている。これは他流試合が盛んになる幕末期の現象ということができよう。

他方、江戸時代後期になっても突垂については必ずしもすべての流派で使用していたわけではない。文化九年(一八一二)に画かれた「日新館武芸稽古図・槍術」(写真4参照)には、突垂のついていない面具をつけ、皮胴を着けて稽古している絵が画かれている。この絵に画かれた流派が、会津藩に伝わった大内流、宝蔵院流、一旨流の三流の内のどの流派かはわからないが、槍術の稽古において防具を着用し、タンポ槍を持って行っていたことがわかる。

以上、これらの絵をよくみると、なぜか小手の画かれていないものが多いことがわかろう。槍術の稽古は素手のままで、槍術用の防具には小手はなかったのかもしれない。槍術にも小手が登場してくるのは幕末になってからであり、後述するように剣術では江戸時代初期のころから小手を使っていたことからすれば、小手は剣術用のものを槍術が流用したとも考えられる。
いずれにしても、両者が互いの防具の欠点を補うようにして、次第に現代のものに近い形にまで改良していったのではないかと思われる。
剣術用の防具
剣術用の防具について、前掲の下川潮は『剣道の発達』において、「直心影流にては、山田平左衛門光徳(一風斎と号す)形稽古の形式のみに拘泥して気勢の欠如せるを慨き、全気勢を傾注して打込み稽古をなすも危険の虞なき防具の工夫を創め、其子長沼四郎左衛門国郷の時代正徳年間に至り完成」したと、書かれている。
以下、下川の説を実証しながら剣術用の防具の変遷について述べることとする。
直心影流は、初代・杉本備前守政元(神陰流)から数えて五代目・神谷伝心斎真光(直心流)、六代目・高橋弾正左衛門重治(直心正統流)と続き、七代目を継いだ山田平左衛門光徳が名のった流派名である。
この山田平左衛門からはじまる直心影流の『兵法伝記註解』(稲川故吉写本)によれば、のちに直心影流を名のることになる山田平左衛門は、十八歳のとき木刀による仕合でけがをし、その後剣術を一時中断していたが、三十二歳のとき高橋弾正左衛門の流派が「面・手袋アリ而怪我ナキヤウニ、身ヲシトミ稽古スル」のを見て同流に入門し、四十六歳のときに免許を得たと記している。山田平左衛門が免許を得た歳は、貞享元年(一六八四)にあたり、それよりも十数年も昔から高橋弾正左衛門の流派では防具を使っていたことがわかる。
なお、高橋弾正左衛門が用いていたのは、ここでの記述が正しいとすれば、「面・手袋」のみであったことになる。胴は着けていなかったことになる。この点、同じ新陰流系統で、仙台に伝わった狭川新陰流が用いた防具が面と小手のみであったことから考えると、新陰流系統では早くから袋しないを使って、「面・手袋」を用いて稽古していたことがわかる。
鈴木省三『仙台風俗志』(自刊、昭和十二年)に描かれている新陰流の防具は、面と小手のみで袋しないを持っている(写真5参照)。

したがって、「胴を打るゝ時は、只稽古着の衣物の上に当るを以て随分痛みを覚ゆるなり。」と述べられている。
高橋弾正左衛門の師にあたる神谷伝心斎は、「他流ト仕相セハ木刀也。シナイニテハカタク無用之事。」といわれているので、神谷伝心斎は形稽古のみで、防具を用いるようになったのは、高橋弾正左衛門の時代からであったこともわかる。
また、山田平左衛門が書き残したといわれる『兵法雑記』には、「兵法稽古之次第」の「吟味乱レ之事」を説明した中に、「右真勝負ニ至テハ面手袋小具足ヲ堅メ、互ニ遠慮ナク勇気一盃ヲ尽シ入乱可鍛錬者也。」と書かれた箇所がある。これは竹刀打込み稽古のことを言い表わしたものであるので、平左衛門の晩年には、防具を着用していたことがわかる。平左衛門が亡くなったのは享保元年(一七一六)、この年は正徳六年と同じ年にあたり、下川のいう正徳年間に防具が完成したという説とも一致する。
さらに、山田平左衛門の第三子で、直心影流の道統を継いだ長沼四郎左衛門国郷(一六八八〜一七六七)の墓碑には、国郷によって「木刀・皮竹刀」が改良され、「面・手袋」も、「鉄仮面」や「綿甲・覆膊」に改良されたと記されている。国郷が父・平左衛門から流儀を譲られたのは宝永五年(一七〇八)、それから平左衛門が亡くなる享保元年までの十年程の間に、父とともに防具の改良に励んだものであろう。
これらの事例からみれば、新陰流系統で用いていた「面・手袋」を改良し、それに胴を加えて防具として完成させたのは、山田平左衛門の晩年、長沼国郷が道統を継いだ正徳年間(一七一一〜一六)のことであったと結論づけても間違いはなかろう。
直心影流の防具
次に、直心影流の防具について、どのような形態のものであったのかをみてみよう。現存する直心影流の防具は、残念ながら見たことがない。
しかし、富永堅吾が昭和六年(一九三一)に模写した『諸流派武道具図絵』に、当時保存されていた直心影流の防具の絵図があるので、それを参考までに掲載する(写真6・7・8参照)。
この絵図をみると、面は竹製で、突垂がついていないことがわかる。胴は平竹を紐で組んだもの。小手は前腕部を覆うもの。竹刀は袋しないであることがわかる。写真5の新陰流の防具と比べてみると、面は面布団がついていること。胴は竹胴のものを用いていることが違いとしてあげられる。いずれにしても、写真6・7・8の絵図は長沼国郷の時代に完成されたといわれる防具と大差ないものといえるのではなかろうか。

「下」につづく。
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