ハビトゥス habitus(25)
ハビトゥスはブルデュー独特の用語であり、ブルデュー社会学の最も重要な概念であ る。「持つ」を意味するhabereの派生語で、本来は外的特徴や顔色、態度、性格、性向などを意味するラテン語であが、ブルデューはこれを「社会的に獲得された性向の総体」の意味で用い、人間が社会化されるメカニズムを巧みに説明する概念である。社会は、一方に書籍や制度などのように物象化した社会と、他方にハビトゥスという形で身体化された社会の二つの側面を持っている。
家庭において、幼児が親にあることを教えられると、幼児は教えられたことを学ぶと同時に学び方そのものを身体化させる。この学び方は次に学ぶ内容を、その質によって受け入れるか拒否するかを決定づける性向となる。このように家庭教育において行為者に発生させる性向を、第一次ハビトゥスと呼んでいる。(26)ハビトゥスは年輪のように行為者に刻みつけられ、それぞれのハビトゥスは不可逆的である。であるから、内側で形成されたハビトゥスは、後に形成するハビトゥスを決定するので当然重要となる。
最初のハビトゥスは次の知覚や行為を決定づけ、それらは新たなハビトゥスを生み、それに応じた慣習行動を決定づけるので、ハビトゥスは性向の体系であると同時に「身体化された歴史」(27)であると言うこともできる。ハビトゥスの概念を通して私が記述したいと思っているもの、それは身体と化した歴史としてのハビトゥスを通して、いわば歴史が歴史それ自身とコミュニケートするのだという考え方です。身体と化した歴史が、真の存在論的共犯関係のなかで、物象化した歴史、モノ化した歴史とコミュニケートするのです。(28)
これこそが、偶然の社会的関係を「本質」に変換する絶妙なメカニズムである。たとえば、『再生産』で述べられているメカニズム、すなわち学校が支配者階級に有利に働き、被支配者階級に不利に働くというのは、支配者階級の家庭の中で形成された第一次ハビトゥスは、学校で伝達される文化を受容しやすい性向を持っているのに対して、被支配者階級の家庭の第一次ハビトゥスは、学校文化を拒否しやすいように形成されるからであるとする。
このようにしてみれば、ハビトゥスとは客観的必要性の身体化の産物でもあるとも言える。人間は、絶えず意識無意識に限らず、他者や物を好悪に従って選択する。その選択された人間や物の一つひとつは相互に関連づけられており、いわばその人の「趣味go*t」として具現する。その選択行為は一見恣意的に見えるが、行為者の社会的位置や所有している財、行っている活動に従ってかなり厳密に行われる。「友達は選びなさい」と教えられるように、友達はいればいいのではなく、自分の性向に従って厳密に選ばれるのである。従ってその選択が失敗した場合、「虫ずが走る」と形容されるほど毛ぎらいされたりす る。絵画の中に立ち表れてくる「個性」と呼ばれるものも、身体化された歴史の一部分である。
・・・・ハビトゥスとは、・・・・「活動中の意図」であり、ある状況においてなすべきことについての実践感覚です。(29)
ハビトゥスは、行為者とハビトゥスを産出した社会的世界との間にある共犯関係を解き明かす上で重要な役割を果たす。個人が引き起こす特定の行動の要因は、真空中に投げ出された個人の心理的・精神的メカニズムによるのではない。社会の中ではどのような行動に価値が与えられ、どのような行動が否定されているかという形で、暗黙裡に社会が個人に要請し、個人はその要請を敏感に察知しながら、骨がおれず最も効果的な「一手」を選ぶという二面性によって成り立っている。ハビトゥスの概念を用いることにより、個人と社会の伝統的な分離を克服することができるわけである。
教育的行為を分析するときに、このハビトゥスの概念は特に重要な役割を果たす。通 常、教育実践は理念との関係でしか考えられず、教育理念の実現の度合いでしか測られることはない。しかし実際の日常的な授業は、教師と生徒の慣習行動であり、双方の無意識的な性向がさまざまな形で表出してくる。生徒はこの教師の行為を、反射的に見て取り、結果となって現実のものとなってゆく。明示的な教育的行為と暗示的な教育的行為が、教育的働きかけの全体を構成し、被教育者のハビトゥスを形成してゆく。つまり、教育理念と教育実践の関係では分析できないさまざまな教育伝達が、ハビトゥスと慣習行動との関係を分析することによって明らかとなるのである。隠れたカリキュラムなどはその好例である。