“地域”子ども組織における民主的主権者の形成

          −『アパッチの旗』の旗手たち(上)−

                    熊沢勇紀(名古屋学院高校・非常勤)

            西内裕一(社会科教育)

 子ども・青年は民主的主権者としての認識と行為をどのように獲得していくのか。それは,学校教育のみならず,教育基本法でいうところの「あらゆる機会に,あらゆる場所において」達成されねぱならない。とりわけ民主的な社会認識と社会的行動能力の形成に関わって,学校と地域を統一的にとらえ,その形成過程を具体的な実践に即して追究する必要がある。このような筆者の問題意識から,学校をも含めた“地域”子ども組織における民主的主権者の形成過程を,大和久勝『アパッチの旗』実践を主たる対象とし,その実践における当時の子どもたちへの間き取り調査に即して追ってみた。本稿はその「前編」である。

〔キーワード〕地域子ども組織,民主的主権者,『アパッチの旗』,自治的活動

はじめに

 「学校」は,公的な教育の専門機関として,子ども・青年が民主的主権著として成長・発達していく上て,その果たす役割はきわめて大きい。
 ところで,今年で制定から50周年を迎えた教育基本法は,戦後民主主義教育の出発点であり,その決意と方向性を示したものてある。その第2条では,教育の方針として「教育の目的は,あらゆる機会に,あらゆる場所において実現されねばならない。この目的を達成するためには,学間の自由を尊重し,実際生活に即し,自発的精神を養い,自他の敬愛と協力によって,文化の創造と発展に貢献するようつとめなければならない」とうたっている。
 この意味ては,子ども・青年にたいして「教育」を担うものは「学校」のみではない。学校の外でも,彼ら自身が生活する「あらゆる機会に,あらゆる場所」において成長・発達を遂げている。
 最近,これまで以上に「学校と地域の連携」が叫ばれている。それは,「学校」だけではなく,学校の外としての「地域」における教育力を見据え,「学校外教育」もその実践,研究が進められている。しかし,子どもたちは学校の外としての「地域」だけで育つわけてもないし,「学校」の中だけで育つものでもない。いわば,学校(さらには,そこにおける教科教育と教科外教育)を含めたものとしての“地域”1)の中で育っているのである。
 本稿では,具体的な実践に即し“地域”における子ども・青年の自治的活動を通して,民主的主権者としての形成過程を探ることを課題とする。民主的主権者とは,その中核として,民主的な社会認識と社会的な行為・行動の能力双方が統一されたものが位置づくものである。その過程において,「学校」とその外の世界としての「地域」を通して,それぞれがどのような役割を持ち,どのように関わっているのか,その関係性に注目する必要がある。
 そこで,小学校の教師てある大和久勝が父母たちと共同して地域子ども組織“アパッチ”を結成し,子どもを〈活動主体〉として自治的活動を展開した『アパッチの旗』2)実践をとりあげ,検討する。なぜなら,その活動を展開していった子どもたち,すなわち「『アパッチの旗』の旗手」たちは,「学校」の中だけでもなく,またそこから切り離された「地域」の中だけでもなく,学校を含めた“地域”の中で,その活動を展開し,育っている姿がダイナミックに描かれている数少ない実践だからである。いいかえれば,「学校」を視野に入れ,「学校」をつくりかえていくような,そういった意味での自治的活動を軸とした“地域”子ども組織実践である。
 そして,大和久による実践記録のみでなく,そこでの活動を経験した「『アパッチの旗』の旗手たち」であった当時の子どもたち,実践者大和久勝,その校区の中学校の教師であった脇本義人への聞き取りをふまえて,民主的主権者としての形成過程を追ってみたものである。

 1.“アパッチ”に関する分析方法

(1)「もう一つの分析手法」としての聞き取り調査

 従来,教育実践の分析は,多くの場合,実践著による実践記録や,教科教育でいえば授業記録の分析という方法によるものてあった。
 ところが近年,社会科教育の分野で,教育実践の分析方法として「元生徒たちがらの聞き取り調査が採用されるべきだ」と主張され,社会科の授業を受けた子どもたちが,その後大人になり,その社会科授業か自己の生き方や社会認識の形成のありようとどう関わっているのかを聞き取り調査から明らかにしようと試みられている3)。
 このような間き取り調査は,実践記録だけては読みとれなかった多くの事実を明らかにし,多角的な実践分析を可能にし,総体としての社会科教育実践を明らかにしたものとして,「もう一つの社会科授業分析手法」としてその成果が評価されている4)。この分析手法は,今のところ主に社会科教育実践,とりわけ授業分析に関して提起されたものである。だが筆者は,この方法は社会科授業のみならず,むしろ子ども・青年の自治的な行為や生き方の指導に深く関わる生活指導実践,地域子ども組織実践に関する分析方法としても採用されるべきてあると考える。
 そこで,大和久実践“アパッチ”に関する分析にあたって,筆著はこの聞き取り調査を採用し,二つの方法によって行った。
 その第一は,実践記録(『生活指導』誌連載のもの,『アパッチの旗』,『仲間たちの素敵な世界』,およびアパッチ高校生サーグル発行の機関誌『あぱっち』No.1〜6,復刊版『あぱっち』No.1〜4)の記述をもとにしたものである。
 第二は,聞き取り調査によるものである。聞き取り対象は,実践者大和久,その校区の中学校教師であった脇本義人,そして当時の子どもたちである“アパッチ一期生”とした。
 当時の子どもたちを,“アパッチー期生”としたのは大和久の実践記録では主に彼らを対象としており,もっとも多く登場していること,大和久白身の指導がもっとも強く反映していると思われること,そして,大和久や父母たちとともに“アパッチ”を創ってきた主体であるという理由からてある。また,“アパッチ一期生”だけでなく,実践者大和久や,脇本自身にも聞き取りを行ったのは,当時の子どもたちにとってのアパッチの活動の「意味」だけでなく,この実践を総体として記録のみでは見えてこなかった事実をも明らかにしようと考えたからてある。

(2)聞き取り調査の概要

「『アパッチの旗』の旗手たち」に関する聞き取り調査は,次の要領で実施した。

@対象

・大和久勝…実践者。
・脇本義人…アパッチー期生が中学生当時,その校区の中学校の教師てあった。“アパッチ中学生サーグル”の活動に参加し,学校内でも彼らの学校づくり,学級づくりを支えた。
・アパッチー期生
 一期生が高校生になった際に結成された“アパッチ高校生サーグル”発行の機関誌『あぱっち』No.1の巻末にある名簿を手かがりとして連絡を取り,調査の協力を承諾した次の4名。
O.Y(男性)…“アパッチ”結成当初からのメンバーの一人で,“高校生サークル”のリーダーをつとめていた。現在,大学等で,外国語を教えている。
 T.N(女性)…中学校で,学級づくりを積極的に実践した。現在は自治体や民間企業の環境コンサルタントをつとめる一方,自身の子どもの学校のPTAにも参加している。
 K.S(男性)…“中学生サークル”の含宿に参加した後,“高校生サークル”のメンパーとなる。機関誌『あぱっち』の編集長をつとめた。現在,民問の企業に勤務。
 M.I(女性)…“中学生サーグル”より参加。K.Sの後,機関誌『あぱっち』の編集長を務めた。また,大学生になってからも,その後の世代の高校生(彼らが機関誌を復刊させる)を指導した。現在,郡立高校の教員。

A聞き取り調査の実施

 聞き取り調査は次の日程で行った。なお,大和久に関しては,事前に予備的な聞き取りを行っている。
・1996年10月27日
 埼玉県内の大和久の自宅にて実施,午前10時より大和久自身の聞き取り。午後1時より,大和久を交えて0.Y,T.Nの聞き取り。
・1996年11月14日
 東京都内の中学校で,牛後1時30分より脇本の聞き取り。
・1996年11月17日
 大和久の自宅で,午後1時よりK.Sを中心にO.Y,大和久を交えて実施。
・1996年11月18日
 東京都内で,午前11時よりM.Iの聞き取り。

B間き取りの進め方

 この聞き取りにあっては,ひとつひとつの質間項目を設定し,それに答えるという形てはなく,過去の記億をたどりなから,ざっくばらんに話していただいた。
 実践者大和久には,主に次の点を中心に聞き取りを実施した。
・なぜ「学校教師」である大和久が“アパッチ”“麦の子”という地域子ども組織をつくったのか。
・“アパッチ”および“麦の子”の活動の実際。
・“アパッチ”“麦の子”と「学校」との関わり。
 脇本には次の点を中心に実施した。
・なぜ“アパッチ”に関わることになったのか。
・“アパッチ中学生”との学校内外での関わり。
・「授業」と関わっての“アパッチ”
“アパッチ一期生”については,次の点を中心に実施した。
・“アパッチ”の活動の様子。
・「学校」および「授業」をどうとらえていたか。
・“アパッチ”で学んだもの−現在から振り返っての“アパッチ”ヘの評価。

 以上の要領で実施した。なお,本文中で引用する彼らの発言は,上記の聞き取りの際に語られたものを筆者(熊沢)の貴任において文章化したものであることを,あらかじめ断っておく。また,本文中での大和久および0.Yの発言は特に指定しない限り1996年10月27日のものである。

 2.“アパッチ”結成の必然性

(1)集団づくリのテーマとしての必然性

 “アパッチ”は小学校の教師である大和久の教員生活5年日の1972年7月に結成された。しかし“アパッチ”は,この年に突如結成されたというものではない。新採用当時からの大和久と父母たちの要求と共同的な実践によって結成されたものである。しかしながら,なぜ小学校教師が地域子ども組織を結成しようとしたのだろうか。まずその点か問われなければならない。そこには地域子ども組織“アパッチ”結成の必然性があったのである。
 では,“アパッチ”は,学校教育を補完するものとして結成されたのだろうか。いやそうではない。むしろ,学校とは相対的に地域に自立した子ども組織であったし,またそれを目指してもいたのである。しかし,それにも関わらず学校教育,とりわけ生活指導・集団づくりの実践的構図の中で自治的な地域子ども組織の活動を要求する必然性があった。
 『学級集団づくり入門(第二版)』では,「学校集団づくりは,さしあたって学級を手がかりとしつつ,それを民主的集団として形成していくとともに,そこにとどまることなく,他学級ヘ,全校生徒集団ヘ,さらに家庭や地域諸集団へとその活動領域を広げていく」5)ことがその本来的なテーマであり,「民主的な子ども組織を子どもの生活の中につくりあげていくことを実質的な目的としている教育実践でもある」6)とされている。これは,集団づくりそのものか地域・学校外に自治的・民主的な青少年組織を作ることを目的としており,そのような発展を見通して学級での実践が展開されていくことを示している。しかもそれは,「まず学級で,次に全校で,その上で地域・家庭と連携して,というような段階論」ではなく,「集団づくりの開始当初から地域・家庭にまでも視野を持って実践を展開する必要かある」ものであった7)。
 だから,小学校教師大和久の学級集団づくり実践において,上記のような発展を見通す実践的構図の中で,地域での自治的・民主的な子ども組織を学級集団づくりそのものが必要とし,「そのような実践的展開なしには,学級集団づくりそのものも成り立たない」8)ものであり,それらが相互に絡み合いながら発展するものであった。

(2)大和久自身の要求

 大和久は教員新採用(1968年)当初から,放課後に地域で子どもたちとよく遊んでいた。そうした中で学級に地域班を編成し,子どもの要求から地域父母会もつくられた。その活動か“アパッチ”の原型ともなっていった9)。そこには,教師である彼自身の持っていた,子どもたちの地域での生活に対する間題意識があった。彼は次のように語る。
 「子どもたちにとって地域での仲間生活は欠かせないものだと思っていました。でも子どもたちをみてみると,仲間との生活がもてていない。同年齢でさえも地域の中で子どもが遊べていないんじゃないかと感じましたね。それが学校での子どもをみても,遊びか下手というか,交わりが下手だと感じていたんだよね。」「今でもそうだけれども,子どもの学校の中で過ごす部分と学校の外で過ごす部分をそのどちらも大切にしたいと考えて…,子どもの学校の外での生活をどうつくり出すかというのは学校教師も無関心でいてはいけないんじゃないかと考えていましたね。」
 これは,子どもにとっての地域での仲間生活と学校生活とを統一的にとらえ,子どもの地域での生活をつくり出すことが学校に不可欠な役割であるとする,大和久自身の間題意識がうかがえると同時に,子どもの発達にとって地域の仲間生活が必要てあるとする彼の学校教師としての教育要求でもあったのである。しかし,この教師としての要求のみで“アパッチ”結成に至ったわけではない。地域遊びや親子遠足の取り組みを展開していく中で,大和久学級の子どもたちだけでなく兄弟姉妹や近所の子どもたちを含み込むようになり,地域集団や異年齢集団の教育力を彼自身や父母たちが発見していった10)。
 また,大和久自身の学校教師としての地域子ども組織に対する要求は“麦の子”結成に至る過程にも鮮明に表れている11)。“麦の子”は彼が清瀬市に転任後「再びアパッチの旗を」と結成した地域子ども組織である。その際,彼は「“少年団づくり”に再び関わることは考えないようにしていた。できたら,しんどいことはもうやめようかとも考えていた」という。一人の学校教師にとって,地域に自立した子ども組織をつくり出すことは,確かに「しんどい」ことである。“アパッチ”では青年教師大和久の若さと,エネルギーと,情熱によるものの大きさは否定できない。にも関わらず,彼はその校区でも地域子ども組織“麦の子”を結成することになる。
 それは,彼の教室実践において「子どもをつかめない焦り」であった。教室では極端に手のかかる子はいないが,各家庭の個性や特徴がわからず,教室で見ている以上にはつかめない。父母にしても教室の中では「それなり」の結びつきはあるが,それ以上となると互いに孤立しあっているような状況であった。父母と教師の結びつきも,学級PTAという場を通しての「あたりさわりのない」形だけが多いというものであった。そのような状況を目の前にした大和久は,「もう一度地域をつかみ直そう」と考えたのである。また,子どもたちは学級の中ではよく遊んでも,放課後は地域に遊び場がなく,異年齢て遊ぶ姿,徒党を組んで遊ぶ姿はほとんど見かけず,「意図的に組織しなければ異年齢集団はできないし,集団遊びも発展していかない」と考えたという。
 このような子どもたちや父母の状況は,「学校」の中では「さしさわりなく」それにつきあい,自己やその要求を「学校」の中に出すことがなかった。かといって,地域の中でもその生活が彼らの育つ場所とはならずに,孤立し,疎外されていた。それがもっとも顕著に表れていたのが青年たちであり,地域では「暴走族」というマイナーな存在でしか見ることがなかったのである。それは「地域が育つことの中で青年の果たす役割が正しく位置づけられていないということ」であると大和久は分析する。そして,アパッチの青年たちを思い返し再び「地域子ども組織作り」の運動を手がけることを決意したのである。
 これは,“アパッチ”ではなく,“麦の子”結成過程での大和久の意識であるが,“アパッチ”を経験した大和久が,地域子ども組織のしんどさを知りながらも,その意味を再確認していることかわかる。

(3)父母たちの自立と要求

 “アパッチ”は大和久自身の要求と間題意識のみで生まれたものてはない。むしろ,父母集団の要求と力とが“アパッチ”を生み出した。父母たちもまた「『アパッチの旗』の旗手」たちであった。
 大和久学級での地域班活動のなかで地域父母会が組織され,学級PTAさらには学年PTAの取り組みへと発展していった。また,有志での「『子どものしあわせ』読者会」も組織され,学級から,学年,他学年の父母・教師へと広がっていった。そこで父母である伊藤と磯田が発起人となって「読者会」の学習会が開催され,学級や学年PTAでの「校庭キャンプ」や「映画会」などの文化活動の内容を膨らませながら学習会は育っていく。
 この学習会の中では父母と教師の激しい議論も行われるようになり,そうした本音て語り合う学習会の中から全校集団づくりや,地域の教育運動,文化運動ヘの挑戦が生まれてきた。それは,「子どもたちの状況や教育行政を嘆いているのでなく,今自分たちの目の前の子どもたちに,子どもたちの豊かな成長のために何をしてあげられるのか」という問への答えであり,その一つが地域子ども組織“アパッチ”の結成でもあったのである。

(4)「あくまでS中の教師として」

−中学校教師脇本義人の場合−

 脇本義人は“アパッチ”のある校区の中学校教師であった。彼は“アパッチ中学生”たちに誘われ,“アパッチ中学生サークル”に参加し,彼らを学校内外で指導し,支えた教師の一人である。
 父母とともに“アパッチ”を結成した小学校教師である大和久に対し,脇本はすでに活動を展開している“アパッチ中学生”たちに誘われ,参加している。そこには,大和久とはまた連った“アパッチ”ヘのスタンスと教師としての要求かあった。
 彼は“アパッチ中学生”に誘われその活動に何度か顔を出す中で彼らに共感するものを感じ,それ以後学校内外で彼らを指導し,支えていくようになる。その共感というのは,脇本自身が当時学校に抱いていた学校づくりへの要求であったという。
 「当時,学校の体制にわたし自身,要求を持っていたんです。そこで,アパッチでのディスカッションで子どもたちが考えていることや学校への要求を聞いて,わたし自身の要求に響きあうものがあったんです。生徒に迎合するんじゃなくて,彼らの要求に根ざして学校を良くしていこうと思ったんです。学校を良くしていくというのは,生徒をどれだけ大事にして,一人一人をどれだけ人間として成長させていけるかというのが学校の良い悪いですからそういう意味で良くしていこうと思ったわけです。そして,彼らをバックアップしてやりたいと考えたんです。」
 これは,脇本が抱いていた学校をより良くしていきたいという,子どもの要求に根ざした学校民主化への要求と,アパッチでの中学生たちのディスカッションで語られた彼らの学校への要求が,「一致」したというものではない。むしろ,その要求に根ざしつつ学校をつくっていきたいという脇本自身の持っていた要求にとって,“アパッチ中学生”たちの語った学校への要求は,彼の目指していた学校づくりにおいて大いに根ざすべきものであった。
 だから,脇本にとって彼らの持っていた要求は不可欠なものであった。それは学校の中だけては聞くことのできない子どもたちの本音としての要求てあった。そして彼は次のようにいう。
 「学校というのは,子どもにとって束縛性のあるものなんですね。だから学校の外にいる子どもはとても生き生きしているんです。これはわたしの趣味ではあるんですが,八ケ岳の方に山小屋があるんです。この前,子どもと話をしていて,休日に何人かの子どもとそこへ行こうということになったんです。そういう学校を離れたところでは,生徒と教師という関係ではなく,わたしにも人生の先輩としてつきあってくれるわけです。子どもたちは,本当に生き生きと語ってくれるんです。」
 学校という中だけてはなかなか子どもの本音や要求は出せない。もちろん,学校の中では,それが全く不可能ということではない。しかし彼の実感は,学校とその外での子どもの違い,学校の外では対等の関係で,子どもが生き生きと本音を語ることができるというものであった。
 そして,脇本の立場ははっきりしている。
 「アパッチでの彼らのディスカッションは,学校の外の地域活動の一つだとは考えていませんでしたね。というのは,わたしはあくまでS中学校の教師としてそのディスカッションに関わっていたんです。この子どもがアパッチという地域の活動をしているにすぎない,そうとらえていました。」「S中学校の教師がS中学校の生徒であるアパッチの子どもたちと話しているわけだから,中学校の教育と切り離して考えられないものでしたね。」
 このように,彼の立場は,あくまで“アパッチ中学生”の通う校区にあるS中学校の教師であり,学校をより良くしていくという立場を貫いていた。その脇本の学校づくりには“アパッチ”の活動は不可欠なものであった。それは,決して,脇本の学校づくりのために“アパッチ中学生”を「利用」するというものではなく,彼らの要求が学校づくりにとって根ざすべき要求であり,その実現のために,彼らの学校での活動を保障する必要性を持っていたというものである。
 だから,「学校の外でのアパッチの活動で学んだことや要求を,学校以外のものだから関係ないと切ってしまうのではなく,それを生かしてやるのが学校というもののはずだから,それを生かしてやりたい,そのための具体的なものの一つとして,形骸化してしまった生徒会活動を子どもの自治活動として生き生きしたものとしていきたいと考えました。」
 と,生徒会括動というかたちて学校での自治的活動を保障しようとしたのである。
 中学校教師としての立場を貫いていた脇本にとって,そこでの学校づくりにおいては,地域子ども組織“アパッチ”の活動は不可欠なものだったのである。

 3.“アパッチ”の活動と組織

(1)地域子ども組織における遊びと自治

 地域子ども組織ての自治的な活動は,学校・学級での集団づくりそのものが持つテーマてあり,またそれを目的とするものてあった。また,教師が日々行う教室実践自体それと絡み合いながら展開される必要を持っていた。
 しかし,地域子ども組織自体は自治的活動そのものを目的としているわけでもないし,学校実践と絡み含うことを目的としているわけではない。いいかえれば,地域子ども組織は自治的活動を「学ぶ」ために,またその活動を「学校」の中に持ち込むことを目的として活動しているのではない。その活動を成立させるもっとも基礎的なものは子どもの本来的な要求に根ざした子ども同士の「遊び」である。しかしこのことは,地域子ども組織から学習や自治的活動を切り離し,単なる「遊び集団」と限定するものではない。
 小川太郎は,地域子ども組織が「学校臭く」なってはならないと主張してきた。だから,その活動のもっとも基礎的なものとして「遊び」を強調する。しかし,「遊ぶだけでいいのてはなく,遊びという自発的な集団活動を基礎に持っていないでは,それから先の集団活動も真に子どものものにはならない」「遊びから先のことは,遊びという基礎的な活動のうえにはじめて子どものものになるのだが,だからといって,遊びから自然に出てくるものではない」(傍点は原文)として,地域子ども組織における「遊び」の重要性を強調しつつも,それと「それから先」の自治的活動の発展的な統一を見通す指導の必要を主張していた12)。
 また,城丸章夫も「学校」と違って地域子ども組織は現実の社会にあるということ,「子どもは気に入らなければ組織に加入しなかったり,脱退したり,リコールを企てたりする自由を持っている」こと,そういう加盟・脱退の自由がある中で子どもたちが苦労してその組織を作り,自治的に維持していくということは学校内での自治的な活動とは違った大きな意味を持っている13)として,「学校」とは違った地域子ども組織における自治的活動に注目する。
 だから,子どもたちは「行くのが当たり前だと思って」(K.S)いる学校とは違って,地域子ども組織の活動は「つまらない」と思えば参加する必要はないし,「楽しい」と思えば参加をする。そういう意味で「出入り自由」の組織であり,「つまらない」と思う括動はしないし,「楽しい」「やってみたい」と思う活動を行う。すなわち,地域子ども組織は子どもの本来的な要求である遊びを基礎として,子どもたちの要求に根ざした多様な活動を保証されるものてある。
その意味で,増山均は地域子ども組織の活動として,@遊ぶ活動,A作る活動,B食べる活動,C育てる活動,D調ベ・学ぶ活動,E表現する活動,F挑む活動,G競い合う活動,H人の役に立つ活動,I集い合う活動,J話し合う活動,Kとりしきる活動,L総含的な活動としてのキャンプ・「地域子ども学校」,に分類した。これらは非常に多岐にわたっているものであり,すべてを地域子ども組織で活動しなければならないというものではなく,このような多岐にわたった活動が地域子ども組織では保障されなければならないというものである。しかし,その中でも,増山は「取り組みの中に〈子どもの自治を育てる〉という観点が,中心的な柱として位置づけられているか否かに,活動の質をわける分かれ道がある」として,とりわけ,〈J話し合う活動,Kとりしきる活動〉の自治的活動についての重要性を指摘している14)。
 この増山のとりわけ強調する〈話し合う活動〉〈とりしきる活動〉は,子どもたちがただ単に「話し合う」というだけではなく,彼ら自身が自らの属する集団(たとえば,子ども組織全体という場含もあれば,そこでの班行動という場合もある)の活動に対して討議し,一定の行動に対する決定も含まれる。そのような意味で〈話し合う活動〉が〈子どもの自治〉として位置づき,〈とりしきる活動〉は,その決定に基づき,自らの集団を子ども自身の手で〈とりしきる〉という自主管理として位置づくものである。

(2)“アパッチ”における自治的活動

 ところで,“アパッチ”もまた多様な活動を展開していた。そして,とりわけ〈子どもの自治〉をその活動の軸として〈話し合い〉〈とりしきり〉が位置づけられている。
 “アパッチ”の行事的活動の大きな「目玉」でもある〈夏学校〉では,とりたてての〈子どもの自治〉として〈総会〉がきわめて重視されている。たとえば,1974年の〈第三回夏学校〉では二泊三日の日程の中で実に5回もの〈総会〉が設定されていた15)。そこでは,班や係等の集団の〈とりしきり〉によって,また夏学校での〈総会〉において,子ども自身が夏学校をつくっていく」主体となっている。この過程で子どもたちは,〈私〉的な要求を組織化し,班や係という集団から,その外にある大人や,教師・青年たちと〈共同〉をしながら,共に生活をする夏学校という〈公〉の世界を創造する主体となっていくのである。子どもたち自身の所属する集団(たとえば,アパッチ少年団全体であり,その中での班や係といった各セクションでもある)の「行動」に対して議論し,その決定をしているだけではない。子どもたちだけの集団という閉じられた中だけでの「自治」や「自主管理」にとどまらない。父母や教師という“アパッチ”の運営や指導を担う人たちとの〈話し合い〉〈とりしきり〉も展開されて,子どもたちの要求と大人たちとの要求がぶつかり合う場面でもあり,子どもたちの要求によって,プログラム変更を勝ち取ることもあった。その意味で“アパッチ”における異年齢集団というのは,小学生から中学生という“アパッチ少年団”の団員内部だけのものてはなく,父母,教師・青年指導員をも含めた“アパッチ”としての“異年齢集団”という性格も持っていた。また,とりわけ“アパッチ”の初期の段階において〈総会〉と並んで重視されていたのか「先生の話」であった。これについて大和久はいう。
 「行事などの活動の最後に必ず『先生の話』をやっていましたね。そこで『きみたちはこの活動でこういうことを学んだんだ』という語りかけを大事にしてました。」
 これは,活動の特に〈総括〉の場面で行われていた。そこでは「君たちはこの夏学校て何を学んだのか」ということを自覚化,意識化させようとしていたという。その場面では,〈公〉的世界を創造する主体となって活動した子ども自身の行為・行動を価値付け,自らが仲間と共同することによって,彼ら自身が民主的主権者として〈社会〉を創造し,変えていく主体となっている,という意味での彼らの社会像・社会認識の形成に大きな影響を与えるものであった。
 そしてこのような〈子どもの自治〉は,夏学校などの「行事」にだけあったものではない。むしろそれらに向けての企画・準備等で〈子どもの自治〉としての〈話し含い〉〈とりしきり〉が展開されていた。
 「行事の前なんかに集まってその準備や計画をしたり,そういうのを抜きにしてはやれなかったですね。………そういうことを決めるときに,大人と子どもが話し含ったりしたりしてね。そういうのはしょっちゅうあった。これを抜きには活動は成り立たなかったから。大人たちも子どもたちを助けながらも,子どもと一絡に話し合ってね。子どもと大人とかくっつくという形でやっていったんてす。先生が必要な場面は先生か指導して…」
 このように行事に向けての日常的な〈話し合い〉〈とりしきり〉は「これを抜きにしては成り立たなかった」と大和久はいう。
 「話し合いの中では,子どもと大人のぶつかり合いはしょっちゅうあったね。それは大人同士でもあったけど。そういう感じで,活動に取り組んでいったんです。」「“麦の子”でもそうだったけど,まるっきり子どもたちだけで決めるっていうわけではなくて,大人たちも口をはさんでいたし,大人と子どもで話し合うっていうことをやっていたんですね。それはとても大事なことだと思うんです。」
 大和久は「大人と子どもで話し合うこと」の大切さを感じていた。そこでは,子どもか大人のいうことをただ実行するという「自治」てはなかった。また,〈子どもの自治〉を子どもたちだけの世界に閉じこめるのではなく,大人たちとぶつかり合うことで,〈子どもの自治〉をまさに自治として,現実の〈社会〉にびらいていくものであった。

 4.“アパッチ”におけるディス力ッション

 −「旗手たち」の証言がら−

 “アパッチ”は〈話し合い〉〈とりしきり〉という〈子どもの自治〉を軸として,その活動を展開していた。それは,行事的活動の中でとりたてての自治としての〈夏学校〉における〈総会〉であり,その行事に向けての企画・準備における〈話し合い〉があった。そのような子どもたち自身による集団の自治および自主管理が位置づげられ,重視されていた。またその一方で,アパッチのメンパー相互で〈話し含う〉こと自体を「ディスカッション」として位置づけていた。
 地域子ども組織の活動として「遊び」を基礎としつつも「それから先」の活動に注目していた小川は,「学校での,あるいは,大きな社会での,諸問題について話し合ったり,読んだり,調べたりしながら,学習するということにおいても,子どもたち自身のものであるはずである。子ども組織の活動の内容から,そのような生括と学習をはずして,考えることは,子どもを正しく理解するゆえんではないだろう。当然,そうした学習の結果として,ある自主的な要求行動が出てくるということも予想される」と述べ,そして,そのような行動が「必然に,集団の組織化を必要とする」として,地域子ども組織の活動として,話し合いや学習を位置づけていた16)。
 “アパッチ”におけるディスカッションは,とりわけ一期生が中学生になった後の“アパッチ中学生サークル”の活動の中で中心的に展開される。そして実際に,そのディスカッションで彼らは学校への要求行動を生み出し,学校づくり,学級づくりの実践へと発展している。だから“アパッチ一期生”にとってのディスカッションはその活動の中でも強烈な印象を残しているものであった。“アパッチ”結成当初からのメンバーてあったO.Yは,次のようにいう。
 「アパッチで印象に残っているものというと,みんなで海に行ったり,花火をしにいったり,遊びに行ったことの方が強いですね。アパッチの活動としてはディスカッションをよくやっていて,本音をぶつけ合うような形でディスカッションをしていました。そういう意味では,議論の仕方は身に付いたと思う。」
 またT.Nは,次のようにいう。
 「たしかに,ディスカッションはよくしていたと思います。議論する,人の意見を聞くということで,自分のいうことを人が聞いてくれるという自信は持てました。だから,自分の意見を言うということは当たり前のことだと思っていました。現在,子どもの保育所や学校のPTAなどで,会議などがあっても多くの人たちは自分の意見というものをいわない人,議論の仕方を知らない人があまりにも多く,その存在に気がつきました。ただ,わたしもそこでアパッチのように意見を出していくかといえば,そうストレートには言いませんけど。」
 K.Sは,はじめて参加した“アパッチ中学生合宿”での,彼らのディスカッションに参加した際の印象を次のように語る。
 「アパッチの中学生サークルの議論に熱いものというか,何か〈熱〉のようなものを感したんですね。」
 そしてM.lも,はじめての“アパッチ中学生合宿”でのディスカッションについて語った。
 「中学生の合宿に参加したんてす。そこで,目から鱗というか,こういう世界があったんだと感じたんです。それがすごい新鮮で。」
 それぞれ,アパッチでのディスカッションに強烈な印象を持っている。このアパッチでのディスカッションによって,彼らは,「議論の仕方」を学び,「意見を言うのが当たり前だと思った」という。しかし,ここでのディスカッションはただ単に「議論の仕方」を学ぶためだけの,ゲームとしての「ディスカッション」というものではなかった。ここでは,「自分の本音を語る」という形で,自己の思いや要求をぶつけあい,「仲間と何かを求める」というものであった。
 M.lは「アパッチの活動をどう評価するか」という問いに対して,次のように評価している。
 「子どもが大人になっていく過程の中で,他者に内面を出し,本音をぶつけ含って語り合うかかわりは絶対必要なものだと思いますし,こういうものに出会えたことは非常に幸福だったと思います。」
 ところで,彼らがこのディスカッションで得たものは,ただ単に与えられたテーマに対して,自己の思いや生き方と関係かなく,ゲームとして「議論」することだけによるものではない。その中で,本音をぶつけ合い,自己の要求を内面から出し合うことによって成り立っていたのである。そのことによってこそ,「議論の仕方」,「自己の意見を表明すること」を学んだということが言える。そして,社会人となった現在も,自己の意見を表明し,他者の意見を聞きながら,社会をつくっていくという社会観を持っている。
 しかし,アパッチのディスカッションが彼らに与えたものはそれだけてはなかった。K.Sは,はじめてアパッチの合宿に参加した際の,このディスカッションに対して,「〈熱〉のようなものを感じた」と発言している。K.Sにこのようなものを感じさせたのはいったい何であったのか。
 「アパッチに誘われたきっかけというのは,当時生徒会の担当をしていた真上先生に『あんたこのままではダメよ』といわれたんです。それまでのわたしは,いやなタイプの人問だったんですよ。理屈っぽくて,神経質で,他は何もできないのにテストの点だけは良いというような。ところが,その先生に言われて,それまでの試験の成績が良ければそれでいいやという思いかあったんですが,そういう意味で『順調』にいってる反面,それだけでいいのかという欠乏感があったんですよ。そこで,アパッチに参加してみて,そこには今まで知らなかった異質なものがあったんですよ。それが自分には欠けてるな,と思ったんです。」
 K.Sは,“アパッチ”に参加するまて何らかの「それだけでいいのかという欠乏感」を持っていたという。彼は自分が「欠乏感」を抱いていることに自覚的であった。それが,“アパッチ”に誘われたときに,実際に参加する原動力の一つではあった。しかし,その「欠乏感」はいったい何だったのか。彼は,その内実までは自覚化しきれてはいなかった。それが合宿でのディスカッションに参加して,彼らか本音を出し合って,意見を交わしている姿を見て,「今まで知らなかった異質なもの」に出会う。そして,「それが自分に欠けてるな」と自覚することになった。
 「その一方で,アパッチのメンバーかやっていることに対して,欠けてるなと思うところがあったんです。とくに事務的な能力という点についてなんですが,そこにぼくがちからになれるかなとも思ったんです。」
 「これまで,アパッチにいたメンバーに対して,みんなと友だちになれるかな,ということを強く感したわけではありませんてした。“アパッチネイティヴ”というか行動力はあるんだけど,自分の考え方や思いを言葉で表現することの苦手なタイプの人たちもいたわけです。その一方で,ぼくなんかは,あまりそういうのはなくて,頭の中で考えて言葉で表現するタイプだったんです。だから,明らかに異質な人たちであるとは思っていました。ただそれを排除しようとか排除されるという雰囲気はありませんでした。その中で,ぼく自身が彼らから何か与えられるものかあるかも知れないという可能性を感じたし,彼らに与えることができるものがあるかも知れないとも感していました。」
 「機関誌の発行を通じて,異質な人たちにも自分の考えなどを表現してもらおうとしました。その,機関誌をつくることや表現させるということか,意味かあるということより,自分とは異質な人たちと何かを一緒にやるということに意味があるんだ,それが自分の成長にとっても意味があるんだと思っていました。そして,異質な人と一緒にやっていくということが,ばくにとっては大きな意味を持っていました。」
 彼は,自分の本音を出しあい,他者の意見を聞きながら,意見を交えて話し合っていくということが,彼自身に「欠けていたもの」であると感じ,その一方で,“アパッチ”のメンバーには「事務的な能力」が「欠けているもの」と感じた。そしてそこでの「明らかに異質な他者」にたいして,彼自身が「与えられるもの」と「与えることができるもの」があるのではないかと,その可能性を感じたという。
 そして,彼は“高校生サークル”からそのメンパーとなり,機関誌『あぱっち』の編集長を務めることになる。そこでは,「自分とは異質な人たちと何かを一緒にやる」ということが,彼自身の成長にとって意味のあることと信じて,その活動を展開させていった。
 すなわち,“アパッチ”におけるディスカッションは,単なる「遊び」ゲームではなく,自己の内面をさらけ出して,本昔をぶつけ合い,自己と他者との意見を交えながら議論するというものであった。そのようなディスカッションを通して,「議論の仕方」「自分の意見・考えを表明する」という,個人的な能力のみでなく,他者の言い分を聞きながら,「みんなで何かをやる」という,異質な他者と共同・連帯する力量をも獲得させるものであった。
 だからこそ,そこでの議論によって,「学校」に対する要求が組織され,彼らは“アパッチ”という〈社会〉の主権着としてだけでなく,「学校」という〈社会〉の主権著として動き出す。そこては,“アパッチ”の仲間だけでなく,「異質な他者」である同じ学校の仲間に働きかけなから,要求と行動を共有し,学校づくり・学級づくりをその主体として実践を展開していくことにもつながっていったのであった17)。

 

  [註]

1)筆者は,地域を学校をも含み込んだものとしてとらえる。本稿では,とりわけその意味を強調する際には“地域”と表記する。また,学校とは相対化された,「学校の外」としての地域を強調する場合には,「地域」と表記するものとする。
2)この実践記録は,『生活指導』に連載され,大和久勝『アパッチの旗−学校・学級から地域ヘ−』(明治図書,1983年)および,『仲間たちの素敵な世界』(新日本出版社,1987年)として刊行された。
3)村井敦志『学力から意味ヘ』草土文化,1996年,p.11。
4)竹内裕一「もう一つの社会科実践分析手法のあり方」『千葉大学教育学部紀要』第4巻T,1996年2月。
5)全生研常任委員会編『学級集団づくり入門(第二版)』明治図書,1971年,p.50。
6)同上書,p.67。
7)浅野誠『集団づくりの発展的検討』明治図書,1988年,p.18。
8)竹内常一「解説 学級から地域へ」(大和久『アパッチの旗』所収,p.183)。
9)アパッチ結成までの歩みは,大和久「アパッチの旗」(1)〜(2)『生活指導』1982年5〜6月号,参照。
10)インタビューの際,大和久自身はもともと「異年齢集団における“教育力”っていうのに関心が」あったという。しかし,自己の体験や知識としては知ってたのだが,この地域遊びの取り組みの中で初めて現実の場面での異年齢集団の“教育力”を客観的に発見したともいう。
11)大和久『仲問たちの素敵な世界』pp.134-138。“麦の子”の実践は“アパッチ”以後の大和久実践をとらえる上できわめて示唆に富むものであるが,本稿では直接の対象とはせず,“アパッチ”に関わる限りでの“麦の子”を扱う。
12)小川太郎「地域青少年組織と集団づくりの課題」『生活指導』1964年4月号,pp.8-9。
13)城丸章夫「地域子ども組織の今日的意義」『生活指導』1974年3月号,pp.28-29。
14)増山均『子ども組織の教育学』青木青店,1986年,p.127。
15)大和久「アパッチの旗(5)」『生活指導』1982年10月号,pp.118-120,参照。
16)小川太郎「校外子ども組織の現状と間題点」『生活指導』1965年11月号,p.15。
17)本論稿は西内裕一の指導の下に,熊沢勇紀が全文執筆したものである。