“地域”子ども組織における民主的主権者の形成

―『アパッチの旗』の旗手たち(下)―

                                            熊沢勇紀(名古屋学院高校・非常勤)

                                    西内裕一(社会科教育)

 「“地域”子ども組織における民主的主権者の形成〜『アパッチの旗』の旗手たち〜(上)」では,その「前編」として,“アパッチ”に関する分析方法,学校教育における“地域”子ども組織“アパッチ”結成の必然性,“アパッチ”における活動,そしてその活動(とりわけディスカッション)を通しての「旗手たち」の主権者としての形成過程について述べた。本稿では,その「後編」として,「『アパッチの旗』の旗手たち」すなわち,当時の子どもたちであった“アパッチ一期生”に対する聞き取り調査の結果をもとに,彼らの民主的主権者としての形成過程からうかがえる「学校」と「地域」,さらにいえば「学校」における教科外教育と教科教育,それらと地域における自治的活動との関係性の実態,およぴその〈結合〉の可能性ついて論じていく。

〔キーワード〕〈立場〉の発達,実生活と教育との結合,「学校知」

 

1.地域子ども組織における現実社会との接点

(1)〈立場〉の発達と現実社会への広がり

 「アパッチの旗手たち」の形成過程から見る「学校」と「地域」との関係性,およぴ,その〈結合〉の可能性について論じる前に,地域子ども組織における子どもたちに対する保護・世話と現実の社会への接点について検討する。
 ところで,「学校」は現実の社会からその直接的な影響を受けないように,一定程度の距離を置き,子どもたちを保護するという「温室」としての役割を持っている。それが,科学的な知識・技能の獲得についての一定の有効性を持っている。だから,公教育の機関としての「学校」は「温室」としての良さを発揮しなければならないということができる。
 それにたいして,地域という現実社会の中で活動をする,地域子ども組織としての“アパッチ”は,たしかに,現実の生のままの社会にさらされなからその活動を展開していくものである。しかし,その一方で地域の父母たちや,教師・青年指導員たちによって一定程度,保護され,世話され,そして指導されてもいる。
 その意味では,父母たちは〈運営主体〉てあり,教師・青年たちは〈指導主体〉であり,子どもたちは〈活動主体〉なのである。しかしながら,これは現実の社会から,父母や教師・青年たちに保護・世話された中いわば“アパッチ”という「温室」の中,だけで「活動」しているということではない。城丸は,「もともと,子どもたちにとっては,遊びだけが校外生活のすべてではありません。家庭や学校を一歩外に出れば,そこは直接的な大人社会との交渉かあります」1)として,子どもの地域での生活では大人社会との交渉が生ずることを指摘している。この,子どもから青年,父母,教師という大人たちを含めた“異年齢集団”て,子どもと大人が共同の活動をし,「交渉」を持つことによって,子どもたちは,保護・世話されながらも,現実社会との接点を持っているのである。
 これは,〈活動主体〉である子どもたちによる,“アパッチ”の活動において,子ども自身の要求をその活動に反映させようとする際,〈運営主体〉としての父母たちや,〈指導主体〉としての教師・青年たちとの「交渉」を持つということてある。それは,子どもたちの「きもだめしがしたい!」というような要求かも知れない。その時,〈運営主体〉てある父母たちや,〈指導主体〉である教師たちが,現実の社会の論理を背負った大人たちとして彼らとの「交渉」に応ずる。もちろん,ここでは現実社会の論理を背負った大人という側面だけてはなく,彼らを保護・世話し,指導するという側面も持ち合わせてもいる。
 このような,大人たちとの「交渉」の中で,子どもたちは,一定程度大人たちに保護・世話されながらも,現実社会との接点を持っていくことになる。坂元忠芳は,「子どもの生活時間を本当にその子どもの人間的な発達に役立てたり,やりがいのある職業や将来の進路のために準備するような,また,子どもが点数で選別され,能力の発達をおしとどめられたりすることのないような,そういう世界をつくっていくための夢や希望を,一つひとつの立場の発達をとおしてつくり出していかなければならないと思うのである。そういう意味で立場の発達は,能力の一つひとつの獲得が,真の人格の内部も構造化されていくための保障となるものである」2)として,教育実践においての〈立場〉の発達を間題にしている。“アパッチ”でも,現実社会との接点は,小学生から,中学生,高校生・青年と年齢が上がっていくごとに,彼らの“アパッチ”における〈立場〉の発達に応じて広がり,変化している。

(2)中学生〜高校生にかけての〈立場〉の発達

 小中学生を少年団員とする“アパッチ”において,それとは相対的な独自の“サークル”を持つ中学生〜高校生にかけての彼らの〈立場〉は大きく発展する3)。小学生段階では,まさに〈活動主体〉として彼らの活動要求に基づき,その「活動」をめぐって人人たちと「交渉」する。その際にも,現実社会との接点は存在するが,大人たちから保護・世話される側面が占めている割合は大きい。
 そして,中学生もまた少年団員であり,〈活動主体〉てあるが,そこには小学生を含めた団員たちのリーダーとしての中学生の〈立場〉が位置づけられている。また,“中学生サークル”での活動も行われている。
 その際,彼らの〈立場〉は次のようなものとなる。
 @小学生と同様に〈活動主体〉たる“アパッチ”のメンパーとしての立場。A“アパッチ”のメンバーたちのリーダーとしての立場。B“アパッチ中学生サークル”の〈活動主体〉としての立場。
 “アパッチ”の中学生は,小学生とともに〈活動主体〉としてその活動を共有しながらも,その中て小学生とは明らかに違う中学生としての〈立場〉を持ち,さらに中学生独自の活動の場を新たに持っている。
 その中学生としての〈立場〉は“アパッチ”における異年齢集団の中でも意図的に用意されている。彼らは,この〈立場〉によって立ちながら,“アパッチ”の活動をめぐって,父母,教師,青年ら大人たちと「交渉」し,現実の社会との接点を持っている。
 また,彼らは“アパッチ”もしくは“アパッチ中学生サークル”で活動するということと関わって現実の社会に接点を持つだけでなく,“アパッチ”の外にあり,またそこで自身が所属する世界に対しても,そこでの経験から得た要求を持ち込み,“アパッチ”の仲間とともにその社会に対して動き出している。いいかえると,彼らにとって「学校」は“アパッチ”の外の世界であり,ある意味では現実の「社会」として存在し,そこに働きかけていたのである。
 高校生では,少年団の〈活動主体〉たるメンパーという位置づけではなくなり,独自の高校生サークルでの活動となる4)。そこでは,“アパッチ少年団”から一定の距離を置き,自立した組織での活動を行う。
 彼らは,機関誌『あぱっち』発行にかかわる機関誌部,学習レクリエーション,文化活動等を組織する学習文化部,少年団の指導にあたる少年団指導部に分かれて活動している。中でも,少年団指導部の活動に見られるように,少年団の子どもたちに〈青年指導者〉として,活動にかかわる。
 ここでは,中学生とは違った高校生としての新たな〈立場〉ヘ発展している。“高校生サークル”として,楠正明や大和久らによる指導や,世話人である父母の天野や磯辺らに一定程度の保護・世話されるという側面を持ちつつも,彼らは高校生の〈立場〉によってたち,“アパッチ”の活動にかかわりながら,現実の社会との接点を持っている。
 そして,彼らには次のような〈立場〉がある。@“青年指導者”としての〈立場〉。A“高校生サークル”の活動主体としての〈立場〉。そしてB社会的な活動を行う青年としての〈立場〉。
 @は,青年指導者として,少年団の子どもたちを「指導する」ということに関わって,〈運営主体〉である父母や同じ〈指導主体〉である教師たちに要求をぶつけ「交渉」を持つのである5)。
 ここには小中学生の立場との決定的な違いがある。小中学生は自らが「活動する」ということに関わって大人や指導者たちと「交渉」を持つが,〈青年指導者〉としての高校生は彼らから一定の距離を置き,自立した指導者として,彼らを「指導する」ということに関わって「交渉」を持つ(もちろん,高校生自身が小中学生の子どもたちと一緒になってその活動を行い,そしてそれ自体を「楽しい」と感じることは大いにありうる。また,教師でなく,父母でもない高校生が指導するということも重要な意味がある)。
 A“高校生サークル”では,高校生自身の要求によってその活動か展開されていく。自分たちの後輩である少年団の子どもたちを「指導する」ということは,彼らの要求の中核的な部分のひとつてはある。しかし,一方ではそれが彼らの要求のすべてではない。高校生自身が〈活動主体〉となる学習や活動についての要求がある。“麦の子”では少年団結成当初から,高校生・青年を指導員として位置づけていたが,むしろ“アパッチ”では「高校生自身が育つことをまず考えていました。少年団の指導ということは,そんなに期待をしていなかったんです。」6)と大和久か語るように,高校生自身の活動を重視していた。だから,それが機関誌『あぱっち』の発行であったり,高校生合宿であったり,学習,ディスカッションであったり,サイクリングなどの彼ら自身の楽しむレクリエーションであった。そこには,直接的に少年団への指導に反映させようというものもあれば,彼ら自身が高校生の仲間と楽しもうというものもあり,それらを合せて“高校生サークル”の活動となっている。このような彼ら自身が〈活動主体〉となる“高校生サークル”の活動をめぐって,世話人てある父母や,指導者である教師たちと「交渉」をしていく。彼らの“高校生サークル”での活動は,青年指導員としての小中学生への直接的な指導だけでなく,機関誌発行などの独自の活動を展開している姿も,“アパッチ”の小・中学生に大きな影響を与えている。その姿に,「あこがれ」を抱き,高校生を自分たちのめざす「近い将来像」としてとらえて,一期生による“高校生サークル”が解散された後,彼らの活動を模倣しつつ,機関誌『あぱっち』を復刊させている7)。
 Bは,やや性格を異にするが“高校生サークル”の活動それ自体が,現実の社会と何らかの接点を持ち,アプローチしていくものとなっている,という側面がある。指導者として,少年団の活動の企画や準備,実踏などにおいて,運営する父母や,教師と「交渉」するだけでなく,活動する施設やフィールドで現実の社会のさまざまな人たちと「交渉」することもある。また,彼らの活動の一つの核であった,機関誌の発行は,原稿を集め,印刷屋との交渉があり,それをアパッチの教師や父母だけでなく,それぞれの通っている,学校の中でその教師や友だちに販売したり,原稿を依頼するなどして,彼らの活動自体が現実の社会に開かれているものであった。

(3)教師の〈立場〉と高校生の自立

―保護・世話からの自立―

 増山均は,地域子ども組織における学校の教師の役割について,「何よりもまず子どもの発達と教育にとって地域子ども組織が担っている教育原理的意義を把握し,教室実践を発展させるうえで,必要な教育力として位置づけることである。さらに学校での教室実践を受け止め,それを支援する父母住民の教育文化運動と深く連携するとともに,学級・学校における子どもの自治的集団活動を発展させる地域の住民の自主的民主的な子ども組織発展に積極的に関与していくことか求められる。」8)(傍点は原文)として,その役割の重要性を述べている。その意味では,大和久をはじめとする「アパッチの旗手」としての教師たちは父母とともにその活動と学校での教育実践を展開している。また,子どもたちにとっても,その意味は大きい。
 「中学校の先生がアパッチに来てくれたときのインパクトはとても大きなものでした。『先生が来てくれた』というような,それはうれしかったですね。」(T.N)
 大和久は,父母とともにアパッチを組織し,その結成当初から教師としてもアパッチに関わっている。この発言は,その後中学校の教師がアパッチに参加したときのことである。T.Nは,そのように当時の印象を語った。これは,子どもが,地域子ども組織という学校の外での活動を認めてもらった,その学校の教師に「公認」された,という喜びかある。だから,“アパッチ”の仲間が同じ要求を持ち,その仲間と学校づくり・学級づくりができるという確信とともに,関わっている教師が,その学校の中にいるという安心感は,彼らの学校・学級づくりへの実践的な見通しを持たせたものとして,非常に大きなものであった。
 しかし,その一方で教師が地域子ども組織に関わる上での「教育臭さ」かあったのかもしれない。
 「我々がやっていたという,中学校での学級づくり,学校づくりというのも,ぼくが感じていたのは,教師が学校をよくしていくためのエージェントというか意のままに操れる子ども集団がほしかったんじゃないのか,というのはあったんだよね。」(0.Y)
 またT.Nも彼の発言に対し「そんなの考えてたのはあんただけよ」としながらも,次のようにいう。
 「中学校の時は,学級づくりを一生懸命やりました。担任の先生が,学級づくりに熱心ではなかったので,『なぜ先生はグラスをかえりみないのか』と詰め寄ったこともありました。立場が逆転していますよね。わたし自身学級づくりをすることに対して,それに素直に感動できる一面もたしかに存在すると同時に,一方では,みんなに一人一人意見を言わせるというようなことに疑間を持ちながらも,半ば強制的にやらせてしまって,[アパッチの]先生方に踊らされていたような気持ちもあります。いま振り返ってみると,先生の期待にこたえようとして,それをくみ取って学級づくりをしていたのではないかという気がします。ただ当時としては,学級をより良いものにしたいというような問題意識を持っていましたね。」([]内は筆者)
 そして,K.Sも次のようにいう。
 「ただ,アパッチの先生方の『みんなを良い子にしたい』という思惑かぷんぷんしてくるのが,いやでしたね。その雰囲気が高校サークルでもあったなら辞めていたでしょうね。]
 T.Nは,当時としては「より良い学級にしたい」という思いがありながらも,教師の意図を「くみ取って」「踊らされていた」のかもしれないと振り返っている。脇本の発言にもあったように,彼は彼自身の学校づくりのために,子どもを「使う」という思惑があったわけではない。そもそも,彼自身の学校づくりへの思いは「子どもの要求に根ざして学校をつくっていきたい」そのような要求を持っているアパッチたちを「バックアップしてやりたい」というものであった。
 その意味で,T.Nは教師の願いをある面では過剰に「くみ取って」いたといえる。
 このような彼らの感じたある種の「教育臭さ」は,「学校でも地域でも生き生きしてほしい」という,教師の願いが伝わっていたということもできる。これは意図的に少年団を組織し,それに教師がかかわるうえで,避けることのできないものかも知れない。いや,教師だけでなく,親たちが意図的に地域子ども組織を育て,その活動を展開していこうとする場合にもあり得るであろう。しかし,間題はそれを克服し,そこから彼らが自立していくこと,そして彼ら自身がそれを自覚していくことこそ重要である。そのようにみると,K.Sの発言にもあるように,“高校生サークル”においては,そのような雰囲気はなくなっていたと,彼自身か感じていた。
 これは,“アパッチ高校生”たちの教師からの自立の過程を示すものでもある。だから,機関誌の中でIは「[中学生の時は]指導して下さった先生方の,その指導を忠実に実行あるいは応用したに過ぎないという気がする。悪く言えば,何か影で指導者にあやつられていたという気もする。高校に入ってからは合い次いでやめるものがでて,サークルの意味について,何度かとりざたになっているが『自主性』という点で中学の時より進歩していると思う。……がしかし,今はもうあやつられていないという感じは持てる。」(傍点は原文,[]内は筆者)9)と記していた。
 彼の手記からは,中学生時代の自身の活動を振り返りつつ,教師の彼らへのかかわり方の変化と,彼ら自身の教師の保護・世話からの自立を自覚的に意識してきたことが示されている。

2.“アパッチ”における「学校」

(1)「相対化」がら取り組み対象へ

 地域子ども組織においては〈子どもの自治〉を軸にすえ,その活動が発展していき,学校の外に子ども自身の安心できる居場所になると,「学校の自分と少年団の自分は違う」という状況を生みだし,「学校」を「相対化」し,「学校」と「地域」での自己とを切り離していくことも大いにある。しかし,これは地域子ども組織が子どもにとって自分自身を丸ごと出せる,安心できる場所となったという大きな成果であることをしめすものでもある10)。ところが“アパッチ中学生”はそこにとどまらず,“アパッチ”以外の自分の所属する集団にもそれを求めようと行動している。
 “アパッチ中学生サークル”のディスカッションでは「学校」をテーマとし,そこでどう行動するかまで議論していた。中学生合宿に参加したR子はそれまで「学校」に対して「どうでもいいや」とあきらめ「相対化」していたが,「学校生活について」のディスカッションに参加して,「アパッチが団結して行動すれば,すばらしい三中にできるではありませんか。……まず手はじめに,アパッチのみんながクラスにかえり,クラスをまとめることを努力すればよい」と「学校」に要求を持ち込み,取り組み対象とする11)。それは,彼ら自身の生活にとって「学校」は大きな関心事であり,多くの不満・要求を持っていたからである。また,スローガンとして“アパッチの輪を広げよう”“アパッチで学んだことを学級,学校,地域に返そう”と掲げていた。だから,彼らはあるべき集団の姿,理想を“アパッチ”に求め,自らの力で集団を創造し,自分たちの所属する学級や学校,家庭という集団においても理想を求め働きかけていったのである12)。

(2)「学校」への要求―仮説

 “アパッチ”にとっても,「学校」は彼らが生活する場であり,その中でも多くの割合を占める。“地域”で育つ子どもたちにとっては,そこには当然「学校」も含まれている。だから,あきらめ,「相対化」する一方で,要求も持っていたのである。
 一つには,「学校生活」についての要求である。彼らにとっての生活の場としての「学校」自体が,自らが主人公となって生活できるものを求めていた。そしてまた,「学校」そのものに“アパッチ”を含めた学校の外にある自身の実生活の場に結合しうるものを求めていたということである。学校の外では,“アパッチ”という子ども自身が主人公となって生活する場があり,彼らにとってはあるべき集団の姿,理想であった。ある意味では,“アパッチ”自体が現実の社会から守られ,保護されているという本来の学校的な側面を持っていたとも言えよう。そのような,現実の社会から守られながらも実生活に結合しうる教育の場としての学校を求めていたのではないだろうか。
 もう一つには,「学校」の教育内容に対する要求である。「学校」は生活の場であると同時に,社会から一定の距離を置き,そこから守られながら,科学的な知識・技能を形成する場としての役割を持っている。とくに,教科教育の場面において強い。それは,実生活とは切り離されたところでの知識・技能の形成を意味するのではなく,あくまでも実生活に切り結ぶものである。ところが,学校においては,実生活に切り結ばないところでの知識・技能がより「科学的」という幻想が生じ,「学校知」13)が生み出され,それが受験のための授業と結びつき,彼らから猛烈な不満が生まれた。その意味で彼らは,実生活に切り結ぶ,科学的な知識・技能を学校に求めていたと考えられる。
 このような二つの側面から,“アパッチ中学生”は学校に“実生活と教育との結合”を求めていた。

3.学校・地域の実態と〈結合〉の可能性

―「旗手たち」の証言―

(1)アパッチにとっての学校生活

 「アパッチの旗手たち」は,「学校」にどのようなものを求めていたのか。聞き取り調査の発言から,当時の学校に対する意識と要求か明らかになった。
 「行くのが当たり前だと思っていました。勉強と遊び以外は求めていなかったですね。人間関係とか,自分の生き方を語り合うというものは求めていませんでした。」(K.S)
 M.Iは,当時の議論で中学校の現状に対する不満や要求が出される中,次のように感じていたという。
 「わたし自身は学校に対しては常に青定的なイメージを持っていました。ただ,アパッチに入ってから,違ってきたのは,学級づくりなどを一人でやるということではなくて,仲間と一緒にできるということですね。孤独じゃなくなるっていうか,連帯できるというのはあったてすね。」「なんでもみんなで語り合える場をつくるとか,仲間をつくるとか,そういうものでしたね。今[の学校]ではもっとそうなんでしょうけど,学校で,自分の悩みを話せるという雰囲気はなかったんですよね。学校ではそういうことを話すと,『何,まじめぶってるんだよ』とからかわれるんですよ。アパッチはそうではなくてなんでも話せたんです。本当に真剣に自分のこととか世の中のことについて話し合えるという場でした。」([]内は筆者)
 R子の手記にもあったように,彼らは学校がアパッチのようになることを願っていた。R子と中学校て同じクラスであり,彼女とともに学級づくりに取り組んでいたT.Nは次のようにいう。
 「中学校の時は,学級づくりを一生懸命やりました。担任の先生が,学級づくりに熱心ではなかったので,『先生はなぜクラスをかえりみないのか』と詰め寄ったこともあります。」「ただ当時としては,学級をよりよいものにしたいという間題意識を持っていましたね。」
 K.Sの発言は,学校の状況とそれに対する要求を端的に表しているものであった。いわば,R子の手記にあったような「学校」に対する「あきらめ」「客観視」である。それは,勉強と遊び以外を求めないものであり,自己の本音や悩みを話すことのできない,そういうものを話すと「何まじめぶってんだよ」とはぐらかされてしまうような「人間関係」のない,「学校生活」であった。その一方で,T.NやM.Iに見られるように,学校に対しての自己の本音や悩みを語り合う中で,「学校生活」に対する要求が掘り起こされている。それは,“アパッチ”のような自己の悩みや要求といった内面を出して話し合えるような場としての「よりよい学校」を求めていた。

(2)リーダーサークルとしての“中学生サークル”

 彼らにとって,“アパッチ”は自己の内面にある思いや考え方をぶつけ合ってディスカッションできるという,「なんでも話し合える場」であった。そして“中学生サークル”では,「学校」をテーマとしてディスカッションすることが,その活動の主要なものの一つとなっていた。そこでの要求は,実際に「学校」のなかに持ち込まれ,彼らを中心に学校・学級づくりが展開されていった。そして,「学校」での活動もまた,彼らのディスカッションのテーマとなっていた。
 「アパッチの中学サークルは,ある意味では学級づくり・学校づくりのリーダーサークルで,彼らは実践家であったということは言えますね。リーダーとしての力を持っていた子がアパッチに集まったと言えると思います。アパッチがリーダーを一から育てたとは言い切れないわけです。リーダーとしての素質を目ざめさせたのがアパッチであったといえるんじゃないかと思います。そしてリーダーは一人ではできない,リーダー同士の連帯をアパッチか教えたんだと思います。」
 脇本は“中学生サークル”は学校づくり・学級づくりにおけるリーダーサークルとしての側面を持っていたと語っていた。そして,“アパッチ”で掘り起こされた要求を「学校」に持ち込み,学校づくり・学級づくりを実践する中で浮かび上がってきた問題点を,また“アパッチ”の中で議論していった。
 彼らは,一緒に学校づくり・学級づくりに取り組めそうな仲間を,「あいつは一緒にできそうだとか,よし今度誘ってみようだとかを,アパッチの中で良く話し合っていました。」(O.Y)と“アパッチ”の中で話し合いながら,誘いあっていた。その意味では,“アパッチ中学生サークル”は彼らの通学するS中学校のリーダーサークルであり,しかもそれは,孤独な一人で行うものではなく仲間と連帯して,仲間と一緒になって学校・学級づくりを展開していくものだという,リーダー同士の連帯を彼らに気づかせるものであった。リーダーサークルとしての“アパッチ”は「学校」の中にさまざまなものを持ち込んでいった。それは,そこで掘り起こされた要求のみではなかった。
 「討論の仕方,仲間づくりの方法,踊りや歌,ゲームなどのレクリエーション。中学の時,役員6人中4人がアパッチのメンバーでしたので,生徒会の規約の改正などを行いました。」(M.I)
 とくに「学校」での教科外活動,いわぱ学校生活の中に“アパッチ”で学んださまざなものを持ち込んでいったのである。そして中学校の中では,脇本をはじめ“アパッチ”に参加した教師たちはそのような活動を保障し支えていった。もちろん,すべての彼らの要求や活動を「迎合して」支えていったわけではない。
 「体育の時間を全部ソフトボールにしろとか,学校でジュースを飲ませろとかいったけど,聞いてもらえなかった。まあ,これは,切実な要求というより,遊びというか,ダメといわれるのは分かっていたようなものだったけど」(O.Y)
 「彼らの考えに共感しながらも,大人の中での論理から,『それはたしかに君らのいうとおりだし,そう思う。だがそのためには,ここに大きな壁かあるよ』とか,『君らのいうことには納得できない』と批判したりもしました。場合によっては,『そうか,君らのいうとおりだ。わたしも職員会議でかんばってみるから,君らも生徒会でその要求を出してくれ』という提案もしました……アパッチの連中は学校の中で生き生きとしていたんです。生き生きとしているというのは,運動を一生懸命やるというのでなくて,自分の意見を持って,それが生かされている,自分の存在か認められているから生き生きするんです。だから,他の生徒たちに『あの連中の生きざまを見てみろよ』と話したことはありますね。」
 脇本は,“アパッチ中学生”を学校の内外で支えつつも,学校という「社会」の論理を知っている者として,彼らの要求を民主的に反映させるための手続きを教えたり,場合によっては,彼らの要求や行動に対して,批判もしていたのである。

(3)高校でのイメージの変化

 “中学生サークル”においては,“アパッチ”と「学校」とくに教科外における学級づくり・学校づくりとはかなり密接に結びついており,一体となっていたといってよい。その一方で,「学校」における教科教育としての授業や,高校での生活は彼らにとってかなり性格の違うものであった。「学校に遊びと勉強以外は求めていなかった」と語ったK.Sは,高校生活と“アパッチ”について次のように語る。
 「アパッチと高校とは,わたしにとって,全く別個の世界でした。わたしの入った高校は,旧制府立中学校の伝統をひく,昔からのバンカラな進学校で,どちらかといえば大学のような,自由な雰囲気かありました。ただ『結局あんたらは,体制側のエライ人になるんだよ』というような暗黙の了解の中ではありましたが。授業も大学入試レベルでは解けないようなアカデミックな授業をやる先生もいて,そういう意味では豊かな文化を持っていた学校だったんです。一方アパッチはというと,やや反体制的というか,市民的な文化を持っているものでした。そういう学校とアパッチというのは,接点がなかったんです。対立するというものでもなく,全く異質なものだったんですよね。だからアパッチでディスカッションしたようなことは,高校ではみんながそれぞれの自分の世界を持ってて,通じないと思いましたね。わたしは学校とアパッチのそれぞれの世界で生きていたという感じです。」「わたしの場合は,自由とか主体性というものは学校て学んだ要素か大きかったですね。しかし,『仲間と何かを求める』というのは学校にはなかったですね。そういうものはアパッチで学びました。ただ,アパッチと出会っていなかったら,そういう進学校の文化をなんの疑いもなくすりこまれて,マシンのように勉強して,他人の痛みの分からない官僚的な人間になっていたと思います。もしくは途中で行き詰まって,破綻していたと思いますね。そういう意味では,アパッチと高校は相補うものであったと思いますし,アパッチに救われたと思っています。」「乱暴なくくり方ていえば,『アンチエリート』という視点を持ったアパッチと,まさに『エリート』の世界である高校という二つの場に行ってたんですね。それで,アパッチに行ってそのエリート主義的なものを批判してくれるのが楽しみでした。」
 また,M.Iも次のようにいう。
 「わたしの行った高校は,都立の中でも自由な高校だったんですよ。その割に,生徒会は機能していない状態でした。でもそれでもまわっていっちゃう学校だったんですね。意識は高い子は多かったんですけど,『みんなでやろうよ』ということには冷めていたようです。その中で,何人かは声をかけてアパッチに誘ったり,機関誌を売ったりしました。ただ中学の時のようにはいかなかったですね。」
 このように,彼らにとっての高校生活と“アパッチ”は,中学校のそれとはかなりイメージの違うものとして映っていた。もちろん,それぞれが違う高校に進学したため,中学校のように“アパッチ”の仲間と毎日顔をあわせる場とは違った。そのため学校に対するイメージも変わってきて当然ではある。その意味で,“アパッチ”と学校とは「別個の世界」であったといえよう。ただ,R子か“中学生サークル”に参加する以前に抱いていたような,「学校」に対する「あきらめ」や「客観視」とは別のものであった。
 たしかに,K.Sは「学校」と“アパッチ”と「ほとんど別個の世界」であり「全く接点がなかった」と感じていた。その一方で,「対立するというものでもない」と感じていた。だから,彼はそういう別個の二つの世界の中で,それぞれの価値観を相対化しつつ,彼自身の生き方を模索していたのである。
 “アパッチ”と中学校は一体のものと感じていたM.Iも,高校については中学校の時のように全面的に,学校づくりという活動を展開するということはなく,高校での仲間は「みんなでやろうよ」ということには冷めていたという。しかしその中で,高校生活は,
 「わたしの場合は,学校も楽しかったし,アパッチも楽しかったんですよ。楽しい場は多い方がいいですから。だからわたしの場合には,どっちが主でどっちが従であったとはいえないんです。そのどちらからも影響は受けていました。」
 というように決して,「あきらめ」「客観視」するというものではなく,「学校」の中で“アパッチ”に誘ったり,機関誌を売ったりしていたという。

(4)アパッチにとっての授業

 これまでの“アパッチ”と学校生活についてのイメージでは,中学校での生活は“アパッチ”と一体のものとなっており,高校においては,イメージの大きな変化はあったものの,“アパッチ”と高校というそれぞれの世界から学ぴ,自らの生き方を模索しようとしていたことがうかがえる。
 しかし,教科の授業という点についてはその評価が大きく違っている。前節において「学校知」を批判し,彼らは“実生活に結合しうる知識・技能”を求めていたのではないか,との仮説をたてたが,実態として彼らは授業にどのようなイメージを持っていたのだろうか。“中学生サークル”のディスカッションで学校の授業に対して強烈な批判をしていた彼らは,授業についての評価はきびしいものがあった。
 「授業に対しては,全く別のものですね。アパッチとの関係は見えてこない。わたしは家庭教師をつけていたので,授業で先生が何を言っているのかはとっくに分かってるんですよ。だから大して聞いてもいなかったし,期待もしていなかった。」(0.Y)
 「やはり授業に対しては,アパッチとは別です。受験対策的なもので,アパッチや学級づくりとはつながりが見えてくるものではありませんでした。」(T.N)
 K.Sはとくに高校の授業について語った。
 「授業も大学入試レベルでは解けないようなアカデミックな授業をやる先生もいて,そういう意味では豊かな文化を持っていた学校だったんです。」「アパッチの指導に当たる先方が規定される学校・授業像とバンカラの先生方のわたしの学校・授業とはお互いに『土俵の外』にあって,異なるイメージのものでした。わたし個人は,授業に単なる知識か睡眠時間以外のものは求めていませんでした。」
 現在都立高校の教員をしているM.Iはいう。
 「授業とアパッチについては結ぴつかないんですよ」「今,わたし自身が教師となっているから,英語などの他の授業に対しても,ただ単に教科書の知識だけじゃなく伝えられるものがあったんじゃないかと,考えることはできるんですが,当時では,教科書の知識だけとか,受験のための知識だけの授業に対して,『こうしてほしい』という要求は出てきませんでした。ただ『情熱がないなあ』とか,『つまんないなあ』と感していただけですね。」
 聞き取りを実施した4人ともそれぞれの受けていた授業は“アパッチ”とは全く別のものであり,「受験対策」的なものや,単に「教科書の知識」を伝えるだけのようなものを「つまんないな」と感していたという。授業全般に対してはこのような評価がなされた。
 やはり,授業というものは「科学」の体系にそって,実生活から切り離されたものとしてしか存在しなかったのだろうか。実生活の場面でもあるアパッチの自治的な活動とは全く関係性の切れているものなのであろうか。もちろん,この聞き取りの結果だけでは,実態として授業と実生活の場との関係性が全く切れていたと言い切れるものではない。どのような場合でその関係性が切れてしまうのか,またどのような関係性で〈結合〉しうるものなのか,を問う必要がある。
 そこで,そのような授業全般のイメージの中で,“アパッチ精神”に通づるような授業は少なからずあったのか,それとも全くなかったのかを問うた。そこから,非常に重要な手かかりが得られた。

(5)〈結合〉の可能性

―S中学校における脇本の社会科授業―

 大方の批判的な授業に対するイメージの中で,O.Yと,M.Iから貴重な証言が得られた。
 「脇本先生の授業は全く別格てした。教育実習でも,彼の指導を受けたのですがあれは芸術品ですよ。そういう意味では,彼の授業は“アパッチ精神”につながるものであったような気がします。平和・人権・民主主義というものがひしひしと伝わってくるもので,その辺では“アパッチ精神”に響くものがあった。」(0.Y)
 「授業とアパッチについては,あんまり結びつかないんですよ。ただ,脇本先生の公民の授業に結びつくものがあったぐらいですね。でも高校ではそういうものは感じなかった」「先生の授業のよかったのは,先生の情熱が伝わってきたんですよね。それから,主権者意識というか『きみたちが主人公なんだよ』というものが伝わってきたんです。例えば三権分立のこととか,選挙権のこととか,中学生のうちからそういう意識か必要なんだと考えさせたかったんだと思います。単に受験のために覚えるものではなくて,伝えたいものや考えさせたいことかあったんですよ。そういう意味では,歴史[の授業]でもありました。」(M.I[]内は筆者)
 この二人はS中学校で脇本の社会科の授業,とくに公民的分野の授業を受け,その授業は少なからず“アパッチ”に通ずるものであったという。彼の授業においては「平和・人権・民主主義というものがひしひしと伝わってくるもの」であり,「きみたちが主人公なんだよ」というメッセージを感じている。この当時中学生であった彼らに,「子ども自身だって社会の主人公である」という脇本の授業にこめられたメッセージが,彼らを主人公として自治的な活動を展開していた“アパッチ精神”に通じるものであった。この脇本の社会科授業から,授業にとっての“実生活と教育との結合”における一つの可能性を示す手がかりがみえてくる。脇本はいう。
 「『授業で勝負する』ということは,学習内容を伝達するというものではなくて,子どもか『生きる力』を身につけるということ,子ども自身が今の生活を見つめることだと思うんですよ。アパッチ精神というものについてはわたし自身『こうだ』ということは言えないけれども『人間が人間らしく生きていく,そのために学んでいく』というもんだと思うんですよね。そういう意味で,アパッチ精神につながるのかも知れない。そう思っていました。」
 これは,「『生きる力』を身につける」「子ども自身が今の生活を見つめていく」ということに授業が何らかの力にならなければならないという彼の授業観がうかがえる。そして,そのようなものが“アパッチ精神”に響いたのかも知れないという。
 そして,彼の社会科授業と“アパッチ”での自治的な活動との関係性について次のように語った。
 「アパッチがどういうことをしているのか,ということが授業につながってきたんです。というのは,みんなが話や討論しあって,みんながより良く生きていけるのかを見つけていくというのは社会科の授業のねらいなんだよ,ということを授業でよく言っていました。だから,臭いものには蓋をしろとか,長いものには巻かれろとか,自分の言いたいことを言わないというのではダメなんだ,だから自分の考えを言ってみるんだ,ということをよく話しました。……アパッチの活動の基本的なこと,一人一人が自分の考えを表明し,一人一人が生かされていく活動,授業も一人一人か生かされる活動なんだということを話したんです。」
 彼自身の授業観と“アパッチ”ての自治的な活動が,密接につながりを持っていたととらえていた。
 「アパッチのことは学校の外での地域活動でありながら,わたしは授業の中で,アパッチの話題を平気で出していました。『どうだ,おまえも入ったら』と勧誘までしたんです。今だったら管理職に何かいわれかねないけどね。」「実際の授業の流れの中で,『アパッチではこういうことをやっているんだ』とか『そうだ,アパッチの連中を見て見ろよ』ということを話題に出すということはありましたが,一日の指導案や年間のカリキュラムの中で,アパッチを授業の教材として直接的に取り入れるということは,意図的にやったということはなかったですね。」
 彼は,授業の中で“アパッチ”のことを話題に出し,時には勧誘までしたという。しかしそのことが,O.YやM.Iにとって“アパッチ精神”に結びついた授業だったといわしめたものではない。授業の中でアパッチのことを話題に出すことはしぱしばあったが,自治であるとか,選挙権の問題である内容を扱う際でも,アパッチを教材として意図的に組み込むということはなかった。
 だが,脇本の授業を通して,子ども自身が社会の主人公であり,一人一人が意見を持ち,一人一人が生かされていく社会をつくっていく,という意味でのメッセージがこめられており,彼の授業における「教科内容」を通して,そのメッセージとして持っていた,子ども自身が組み立てていく「教育内容」14)が“アパッチ精神”に響くものであったということである。
 というのは,“アパッチ中学生”にとって,学校や“アパッチ”での自治的な活動を通して,彼ら自身がその活動の主人公となり,本音をさらけ出して自己の考えや意見をぶつけ合って,一人一人がそこに生き,生かされあっていた。一方,脇本は一人一人が生かされていくという授業をつくっていこうとした。その授業と彼らの持っていた“アパッチ精神”とがまさに「教育内容」として,響きあったのである。
 このように見てくると「アパッチの旗手たち」は,“アパッチ”という閉しられた世界の中だけで育ってきたとはいえない。確かに彼らは“アパッチ”の中で多くのものを学んだ。しかし,そこで学んだ“アパッチ精神”を自らの所属する“アパッチ”の外の世界としての「学校」に持ち込み,主権者として行動していった。しかも,その“アパッチ精神”は「学校」における学級や生徒会などの自治的活動だけでなく,「授業」という知の世界とも〈結合〉しうる可能性を持っていた。その意味で,『アパッチの旗』実践は,学校を含めた“地域”子ども組織実践であり,「『アパッチの旗』の旗手たち」は,学校(そこで自治的活動のみならず「授業」も含めて)を含めた“地域”の中で民主的主権者として育っていったのである。

 おわりに

 この『アパッチの旗』実践は,今から20年以上前に生まれたものである。当時の状況は,当然現在のものとは異なっており,この実践がそのまま現在にも通用するというものではない。にもかかわらず筆者がこの実践に注目したのは,子どもが育つ上で「学校」と「地域」の関係性と役割を,今一度問い直すに値するものであったからである。現在,教師と父母とが共同して学校の「受け皿」でない自治的な“地域”子ども組織を「一から」創造することはきわめて困難であろう。しかし,現在では多様な地域子ども組織が存在する。それらは必ずしも,〈子どもの自治〉か位置づけられているとはいえない。その際,学校がすでに多様に存在する子ども組織に対して,民主的主権者形成における「教育内容」という点からの〈結合〉の可能性を,この実践は少なからず示しているものである。本稿では,この実践における「旗手たち」の形成過程を明らかにしたものだが,現代的な意義と課題を提示するには十分なものではなかった。この点は今後の課題として,示しておきたい。
 最後に,聞き取り調査に協力いただいた「『アパッチの旗』の旗手たち」である大和久勝先生,脇本義人先生,アパッチ一期生の方々に紙面を借りてお礼申し上げます15)。

[註]

1)城丸章夫「地域の変貌と地域子ども組織」『生活指導』1969年7月号,p.23。
2)坂本忠芳『学力の発達と人格の形成』青木書店,1979年,p.203。
3)“アパッチ”の組織図については,大和久「アパッチの旗(7)」『生活指導』1982年12月号,p.128,参照。
4)高校生サークルの組織については,大和久「アパッチの旗(8)」『生活指導』1983年1月号,pp.126-127,参照。
5)これは“麦の子”の例であるが,1986年の夏学校において小一〜中三までの「全員キャンプ」の実施をめぐって,青年指導員たちと父母・教師の問で激しい「交渉」があった。結果,低学年キャンプと高学年合宿という二本立てとなったが,その活動内容をすべて青年指導員たちに任されるに至った(大和久『仲間たちの素敵な世界』新日本出版社,1987年,pp.166-168,参照)。
6)1996年10月27日のインタビュー。以下,聞き取りの発言は「前編」での調査の日程に準ずる。
7)大和久『アパッチの旗』明治図書,1983年,p.140。
8)増山均『子ども組織の教育学』青木毒店,1986年,pp.53-54。
9)高校生サークル機関誌『あぱっち』No.3,1976年,p.20。
10)第2分科会報告(文責・棚橋啓一)「いじめ・不登校」『子ども会・少年団(第25回子どもの組織を育てる全国集会報告集)』1996年1月号,pp.57-59。
11)大和久『アパッチの旗』および,「アパッチ三銃士」『生活指導』No.204,参照。
12)大和久『アパッチの旗』p.42。
13)竹内常一「民主主義理念と道徳教育」『講座日本の教育第1巻』新日本出版社,1976年,参照。
14)「教育内容」「教科内容」の違いについては,竹内「学校教育の目的と構造」『教育のしごと第3巻』青木書店,1995年,pp.118-122,参照。
15)本論文は西内裕一の指導の下に熊沢勇紀が全文執筆したものである。

 

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