竹内常一『子どもの自分くずし、その後』(太郎次郎社 1998)
をよむ 1998.7.9
福島サークル
西内裕一
この本は、『子どもの自分くずしと自分づくり』(東大出版会 1987)の、続編である。
神戸の事件(酒鬼薔薇聖斗の事件)を竹内氏は、予測していた。そして、それが現実になったところで、この本を出したのである。
プロローグは、「遍歴から再生へ」である。
1.青年期の遍歴、その反抗と退行
「青年は仮の自分を構えることでもって、親の世界から訣別し、青年期遍歴に旅立つのである。」
「これが青年期遍歴のはじまりであり、青年期というイニシエーションにおける「死」である。その「死」とは、幼少年期の自分の死である。青年はこの「死」を出発点として、自立した人間としての「再生」をめざして、およそ二十年間の青年期を遍歴しなければならない。二十年間というのは、十歳ごろからはじまるプレ思春期から、青年期が延長した二十代後半までのことである。」
大衆化した青年期の国家的な規模での囲いこみ……学校、学校に従属してしまった家庭
「青年は価値としての青年期を享受できる可能性をもちながら、それを奪いつづけられるという状況のなかで、「死」と「再生」をくりかえしながら青年期遍歴をつづけなければならない。ここに現代の青年期遍歴の新しい困難さがある。」
「これまでの自分をこわすということは、これまでの自分をつくってきた世界をこわすことでもある。ここで「世界」というのは、実際の具体的な生活ではなくて、具体的な生活によって象徴されている価値的な世界である。」
「こわしにかかったはずの幼少年期の自分もまた強固なものとなる。幼少年期の自分はこれまでの世界への依存を持続しようとし、甘えをさらにふとらせる。これにたいして、青年期の自分はその支配下にあってもがき、見とおしのない反発をつづけるしかないことになる。ここに依存と被支配のなかにあって、甘えと反発をくりかえしながらも、それからの自立を願望しつづけるという現代の青年期が生まれてくる。」
「青年期反抗のなかでかれらは、さまざまな仮の自分、仮の世界を実験的に構える。非行をする自分と非行的プレイランドもそのひとつである。しかし、かれらはそれが虚偽であることを知っている。なぜなら、かれらにとっては、仮の自分、仮の世界は、真の自分、真の世界を発見するための道具だてにすぎないからである。かれらは仮の自分、仮の世界を構えることでもって、これまでの自分と対決しつつ、これまでの自分のかげにかくれていたほんとうの自分を探り、その原質的な自分のうえに新しい自我を構築していこうとする。だから、非行生徒がある日突然、真摯な青年として転生するのである。」
「青年期後期というものは、これまで青年期遍歴を共にしてきた仲間を裏切るというテーマをふくんでいる。もしかしたら、青年はこのような裏切りでもってその青年期を終結させるのかもしれない。そうだとすれば、その自立は、裏切り・見捨て・見殺しにしてきたこれまでの仲間の願いをどうすくいあげ、どう実らせていくかという課題をふくむものでなければなるまい。そのような自覚がともなうとき、青年の自立は、既存の社会的関係に閉ざされたおとなではなく、社会的関係をたえず切り開いていくおとなへとかれを転生させていくのではないだろうか。」
2.親の中年期(思秋期)危機
「青年期後期というものは、自分のなかのさまざまな可能性を切り捨てて、一つの自分を選ぶというテーマをふくんでいる。そのかぎりでは、おとなになるということは「あきらめること」、すなはち、自己の置かれている状況を明らかにみてとり、一つの自分を意識的に自己選択するという決断をふくんでいる。」
「子ども・青年の世代の問題は、親(おとな)の世代のツケである。かれらが「やさしさごっこ」と「いじめ」でしか社会をつくることができないでいるのは、親(おとな)の世代がかれらにそれ以外の社会のつくり方をつたえ、教えることができなかったからである。そうだとすれば、親(おとな)の世代が自分たちの中年的危機と社会的危機をどう超えていくかが子ども・青年の世代の問題を解くカギであるといっても過言ではない。」
3.家族史の転機
「子どもに青年期危機がおとずれるとき、親に中年期(思秋期)危機がおとずれる。子どものなかで、幼年期の自分が「死」に、新しい自分の「再生」がはじまるように、親のなかでも、これまでの自分の「死」と新しい自分の「再生」がはじまる。この二つのイニシエーションの同時平行的な展開によって親子関係、夫婦関係は危機をはらみ、親子、夫婦はその関係を再構築・再契約しなければならなくなる。こうして、家族史は激しい転機に直面する。」
高校三年生のT子のケース
「手記を読んだ母は、夫は絶対に変わらないから、家を出るという。父は、二十四年間連れ添うてきたからわかってくれていたと思っていたが、これが真実なら自分が変わらなければという。二人の距離は遠いが、一応、和解が成立し、T子は母と同じ看護婦になるために、県外の准看護学校に進学し、家を出た。」
「残された夫婦は、精神的離婚を確認しあったうえで、精神的再婚を決意し、家族史の転機は一応は去った。しかし、二人のあいだには性差別があり、二人とも内なる異性像にこだわって、相手を認めていないから。老年期にむけての「再婚」に困難はつきまとうだろう。その意味では、二人の思秋期イニシエーションと、精神的な離婚・再婚はまだ終わっていないようである。子どもは青年期危機をのりこえていくのに、親は中年期危機をのりこえられず、子どもに取り残されるのがつねなのだろうか。」