1 8 世 紀 会 津 藩 の 消 費 税
「 義 倉 溜 銭 」 始 末
海 老 名 俊 雄
はじめに
会津藩では宝暦11(1761)年から明和7(1770)年まで、10年間にわたって ぎそう ためせん
「義倉溜銭」と称する、今日の消費税に相当する大型間接税を実施した。
「諸商売物の内、魚鳥類・味噌・加羅油・繰綿・茶・他所出の塗物・水油・紙・
呉服・小間物・古手物・穀類・薬種・砂糖・藍玉並びに二本松、南山入りの板木など」から、年に6,7千両になるよう、「譬ば拾銭の品を拾壱銭に、百銭の品を百拾銭に調え候様にし、溜銭は値段上りの所を以て出」すというものであった。
溜銭率(税率)10パーセントである。
ここでは(「義倉溜銭」実施の時点)、課税品目がこのようにしか記載されていないが、「板木など」の〃など〃について、天明元(1781)年5月9日の記事に、「先年諸品溜銭の計らい仰付られ物々の溜銭当時五十四」種とあり、ほとんどの商品に課税されたとみてよい。ところで、同じ編集者の手になった記事でありながら、天明のこの記事では「溜銭」だけで、「義倉」の文字がないことに注目されたい。
全く新しいこうした政策の実施については、藩内でも異論があり、じっさいに徴収されると、さまざまな弊害もあって、藩の正史『会津藩家世実紀』は関連する記事を詳しく記録している。『会津若松史4』でも「宝暦・安永期の藩政」で取り上げ、「種々の弊害を惹き起こし」主君から中止の指示もあったが、「義倉により家臣や領民の手当救済している現状」から、政策は明和7年まで続けられたことを簡単に紹介している(昭和41年、会津若松市発行。39~42ページ)。
筆者は、この政策をめぐる藩内の対立、「義倉溜銭」の実施過程でみる、まやかしの実態、藩上層部がどのような現状認識をもって対応したのか等を明かにしたいと思い、すでに『会津藩における消費税「義倉」溜銭政策の検討』を、会津史学会機関誌『歴史春秋33・35・36号』(1991~92年)に発表している。その後、1993年の暮れ、消費税をなくす全国の会の「ノー消費税30・31号」で簡単に紹介する機会を得た。
ここでは、18世紀に会津藩が実施した消費税、「義倉溜銭」政策の導入の背景とまやかしの実態、批判の高まりから廃止に至った過程などに焦点をあてて報告する。引用は特に断らない限り、刊本『会津藩家世実紀』(歴史春秋社発行)により、読み下し文に改めた。以下「実紀」と略す。
1「義倉溜銭」の概要
はじめにで紹介したように、「義倉溜銭」とは、諸商品(54品目とも記す)の値段を一割値上げして売り、この値上げ分を義倉溜銭として徴収するものであっ
た。これを何故「義倉溜銭」と称したかというと、立案者の小山田伝四郎、井深主水の申し出によれば次のようになる。
第一に、単なる溜銭として出金を課すのは(溜銭=貯め銭で、これまでにも塩溜銭など、将来に備えて積み立てて置かせる制度があった)、領内四民ともに「甚だ相痛み、取り行いがたき儀」である。そこで「諸商売物の上より出し候えば痛み候儀これなく」「自然と四民よりの出金に相成り」集めやすいということである。
第二に、社倉(会津藩では、生活困窮者などの救済に、利付きではあったが、米や金を貸し出す社倉制があった)に準じた「金義倉」を設ける。この元金をみんなで作るということなら、分かりやすいし納得させ易いということであった。「末々には金義倉取り行いの高(元金)相備わり候」「その節に至り溜銭取り立て相止め然るべく」として、「義倉の主意」を前面に押し出していた。しかし、実態は後でみるように「義倉」とは名ばかりで、藩財政のやり繰りや財源として費消されていたのである。10年たっても元金は溜まらなかった。
明和7年「義倉溜銭」廃止の記事では、「(家中の生活費補給のための)御手当 などの見込みをもって、諸品物の矩を定め、運上課し候取り計らい」であったが、「御家中、町郷村御救いも相止め、たゞ、御内証補いの溜銭のように相成り」と、「義倉」は「偽装」であり、藩財政へ繰り入れる財源としての運上であっ
たことを、認めている。
「義倉溜銭」とは、このような四民、士農工商全体から収奪する大衆課税であり、その上、「義倉」などと人々を欺くものであったから、当初から批判の多いものであった。
2「義倉溜銭」実施の背景
@ 藩財政の実情
宝暦3(1753)年には藩の借財が元利合計で36万4千両にたっし、年内返済分4万2千両余が決済不能となった。7年間の返済猶予を頼み込み、この間に財政再建に取り組むことにしたが、翌4年の不作、続く5,6年の大不作で、後で述べるように、農村の窮状は深刻となった。飢渇、逃散など禿(つぶれ)百姓が続出し、耕作放棄地(手余り田地)は4万8千石にもなった。このため財政再建計画は破綻してしまった。
宝暦7年7月には再借知令を出し、150石以上40l、100石以下30lの知行カットをおこなった。この時点での新古の借財は40万両におよび、年間収支は1万9200両の赤字が見込まれるに至ったからである。年貢収入として米方24万200俵、金方1万5300俵の中程度と見込んでも、年々の赤字が2万両という事態であった。
A 破綻した農政
会津藩最大の一揆(寛延一揆)、寛延2年(1749)の暮れから4年が過ぎても、
農村の窮状に改善の兆しはみられなかった。
外嶋左一兵衛宝暦5(1755)年正月、享保の改革で財政再建に力を尽くした外嶋の農政改革 左一兵衛が再び登用され、農政改革にあたることになった。外嶋 は民勢の回復こそ年貢収納向上の基本であると考えていた。寛延の一揆で免相(年貢率)を引き下げたといっても、「多年莫大の増納に民力漸々に相衰え」ていて、このままにしておけば「民力必至と保ちがたい」いう。
外嶋の改革は、@年貢収納法を、現行の田方米納、畑方金納から元禄元(1688)年迄行っていた、田畑同免米金等分取りの古法に復し、三カ年の定免制を実施する。A手余り地対策に公田作りを推進する。B社倉の運営を実態に合わせて改善するの3点が中心であった。
@現行法では実質的に田方の負担が重い。手余り地(耕作放棄地)が水田地域に多いことも、その現れであった。古法に復せば田方の軽減になる。田方が少なく畑方が多い所は、米納をへらし金納を増すように調整し、畑作地域でも痛まないようにする改革が実行された。ところが、この年は冷雨が続いて元禄8年の凶作をしのぐ大不作となり、翌6年も冷雨で不作となり、期待された財政の好転はならなかった。
しかし、去年まで「米100俵納めていた村は、米50俵と金6両2分余(米50俵の金納分、公定の価格で換算)で納めたから」、不作による米価高騰で(金拾両で米弐拾四、五俵値段とある)金20両で売って6両2分しか納めなくて済み、この差額は「全く地下(百姓)への御手当」となった。大不作のなか、農民の実収入をいくらかでも増すことに役立った。
外嶋は三年で御役御免になったが、天明・寛政の改革を経た、50年後の享和2(1802)年に、外嶋の仕法を評価する郡奉行一同の文書がある。「米金等分古復、
定免に成り替わり候所、その年翌年共に大不作、同7年は非常の洪水誠に止むを得ざる不幸故、その験(効果)」はなかったが、もし不幸がなければ「御取箇は減ったとしても、民勢は古復する所だったのに、残念だった」と惜しんでいる。実は藩重役がもっと早く決断していれば、改革は成功したであろうとの思いが込められているのである。
外嶋の改革案は宝暦元年に出されていたのだ。実施しても確実に好転する保証はない。幕府の御目付衆が視察にくる時、政策の変更など目立つことはまずい。こうした思惑から「絶対に大丈夫か」と問い詰めて、外嶋に提案を取り下げさせていたのである。重役達の事なかれ主義、決断のなさが問われている。
A逃散や禿百姓によって耕作権を放棄された田畑は、五人組や村の共同作業によって年貢を負担させられていた。しかしどうにも手が回らず不耕作を認めざるを得ない耕地が、年々増加していた。これを会津藩では手余り地と名付け、年貢免除地にしていた。藩としてもそれだけ減収になるので、なんとか耕作させようと努力していたが、なかなか改善されないまま増え続けていた。寛延一揆はこの手余り地の耕作を強制しようとしたことが主な原因で起こった。
外嶋の改革は、3万7千石はこれまでの共同責任に任せるが、残りの内4千石は休耕田として田年貢を免除、稗などを作らせるが、6千石を公田とした。公田は組(20前後の村で組織)単位で耕作させるが、《社倉籾を耕作資金として貸し出す。秋の収穫から社倉籾を返済、作業費用を差し引き、残りを藩に納める》という仕組みで、公田作りと称した。
B社倉運営の改善では、その実態から見て2割の利息を1割5分に引き下げるというものである。Aと共に宝暦6年に実施された。
却下された提案外嶋左一兵衛が改革をはかった3点は、いずれも当時の農政の農政の基本問題根幹をなす難問題であった。外嶋は、百姓達の生活の現実を次 のようにみている。前年の秋は干ばつによる不作で、年貢取り立ても思うようにすすまない状態であった。春になっては、百姓達はいかに食物を手に入れるかに精一杯で、農作業などには一向に手がまわらない。田地を手放す者もかなりの数に上るという状況である。これは「実は作徳(作得とも書き、年貢などの公納を引いた実収入)これなく、夫役(労役)繁く相当たり、農事の時節に遅れ田畑手入れ自然と疎に」なるからで、百姓達が労働意欲をもっと高めるように、その実収入を増やすようにしなければならない。
このような考えは、外嶋だけでなく、実際に農政を担当していた現場の役人、代官、郡奉行などは身近に感じ取っていたし、意見具申もなされていた。
年貢収取についてはすでにみた。社倉についても、すでに寛延一揆のなかで明らかになっていたように、社倉米を借りて年貢に当てている実態がみられた。その後もおなじで、外嶋の報告によれば、「御恩恵が全く地下百姓共へ相及ばず、郷頭、肝煎り共のうちに多分に借用」されているばかりか、「打ち続く不作につき、三夫食(貸し米)を以て諸納の分へ」廻すようになっている。だから厳密に糾明しろ(年貢に回すな)と言えば、今年の年貢が不能になるのは明かである。といっている。
本来、田起こし、田植え、田の草取りの三大農作業の時節に合わせて、夫食(飯米)として貸し出されたはずの米が、近年は、なんと年貢皆済のために流用され、夫食とは名目ばかり、「近年は実物の御貸方これなく、差し引き」勘定をし、
帳簿を書き換え印を押させるだけで、利息を2割ずつ取られているのである。外嶋らは、宝暦6年にこれを5分引き下げ、1割5分にした。
手余り地の増大は、農政の欠陥を如実にしめすものであった。どこに問題があっ
たのか。端的に言えば根本問題に手をつけさせない、藩重役の姿勢にあった。
耕地に比し家族が多いなど、労働力に余裕があれば、経営規模を拡大する機会でもあるのに、そうはならなかった。なぜか。それは、その耕地を手に入れ耕作するとなると、耕地とともに未納の年貢など、負債も共に引き受けなければならなかったからである。これが耕作放棄地が増大する最大の原因であった。
このことを、郡奉行たちも真剣に検討していた。外嶋退任直前の郡奉行全員による提案をみてみよう。
宝暦7年も夏は洪水、秋は風が吹いて不作となった。
じ げ てい
「当時地下の体(ようす)、極窮の村方370ケ程、そのうち亡所同然の村居190ケ村程、其の余つぶれ百姓もこれあり、人数高はなはだ減少」「年々かようになり行き候はば、遠からず御領分亡所同然のところ半ばにも至り申すべきや」
という危機感から、年末になって郡奉行一同による「地下の様子並びにこれ以後 ぞんじより
の取り計らいの存寄を申し述べたい」という、申し出になった。
郡奉行片桐八左衛門、下平七左衛門、高橋覚左衛門、赤羽吉左衛門、外嶋左一兵衛は重役達の前で提案を説明した。それは次のようなものであった。
地下困窮の本は、つぶれ百姓の不作分を五人組又は一村にて背負い、年貢を弁納させていることにある。自分の上納さえ難儀なのに、余人の分まで引き受けさせるなど、たいへんなことである。例えば、代田組郡山村では、百姓一人前で米14俵余、金1両1、2分程ずつ他人の分を差し出している。これではいくら働いても作徳(実収入)は得られず、作業に意欲を失うのも道理と思われる。
そこで、「他人の年貢までことごとく背負い候だん、民情あい服さず候あいだ、
当(年)納めより年皆済の定め相止められ、弁納の分ことごとく御免なられ然るべく候」「いったん御取箇減り候とも、地下も服し、段々民力取りなおし、追っては御収納も相増すべき」ものとの提案である。
これに対し、加判の者共は、「年皆済は公儀共に一統の御定め」「この一事をもっても容易に相止められ難き筋」と前置きして、たとえ後になって御取箇が増すといっても、差し当たり今にわかに甚だ減っては、御家人の扶助、公私の入用をどうする。当て物(担保)なしでこれ以上の借金は無理だ。そこを何とか切り抜けるよい方法があるというなら、郡奉行一人ひとりから、個別に聞こうと回答する。
非常の提案だからこそ、団結して事にあたろうとする郡奉行達に、「公儀共に一統の御定め」という形式論を楯に、一人ひとりに分断する重役達の姿勢は、結局「只今までの通りでよい」といわせ、提案を撤回させてしまった。提案はなかっ
たことになり、重役達の、事の是非、実施の可否の判断も責任も回避されることになった。《弁納廃止で農民の意欲を高め、民力回復を第一にという》提案があっ
たこと、これが漏れて、もし農民の間に広まれば「民情逆立ちいかように相成るべきか」ということの方が、重役達の重大関心事だった。
神尾大蔵の外嶋にかわって、御蔵入郡奉行のまま郡奉行仮役を命じられた神尾登用と辞任大蔵は、かって郡奉行を勤めたこともあり「地下の筋もわきまえ才 力も」ある者と期待された。年免への切り替えが課題であった。収納法の変更は、農民の不安を招かないかと心配する、藩主補佐(藩主が幼年)容章に神尾は出府して説明する。
段々年がたつうちに、自然と土地の熟否も移り変わり、民力産業共に盛衰もあっ
て、現在では古来からの免相では実態に合わなくなり、不都合になっている村々もある。今年から収納法が変わるのを幸いに、この秋の出穀の多少、民力の強弱を明細に改め、窮村で立ち行きがたい所は、思い切った年貢の引き下げをし、その他の所でも、地下の生活が成り立つように作法を考えていきたい。そうすれば領内の不公平もなくなり、地下も納得するので、この際年免にしたほうがよい。自分としては最初から増収の意をもって臨むものではない。
また、年貢以外の諸納め物が数多くあるが、納め物(雑税)や割り物(組や村の負担金)など大幅に減らすつもりで検討する。そうすれば年貢も納め易くなる。
こうした神尾の説明で、年免への切り替えが実施されることになった。
翌宝暦9年2月の、重役共から容章への報告は、事態は段々良くなっていると、
次のように書いている。
「郡奉行共吟味の筋、近来にこれなく明細に入念、窮民共へは不作引きの外にも免下げ、金方(への)直し、荒地引きなど、其の外地下甘きの筋品々勘弁取り計らい…去暮御取箇高272,300俵余、金方15,600両。そのうち春に済越分(春になって納入)米21,000俵、金2,600両と相見(例年より少ない)…地下一体は甘い方と相見…当春は郷村よりの参宮人数少なからず…。」
この明細に入念というのが神尾の仕法の特質であった。
実情をくわしく調査し、無駄な経費を省いて、できるだけ農民の負担を軽くする。公平で納得のいく免相にして年貢の確保をはかる。という仕法である。明細に実態を把握して政策を立てることは、今日では当たり前のことだが、この仕法をめぐって、後で述べるように、他の郡奉行と争いになり、神尾は辞任する。
わずか1年半の任期であったが、免相切り替えの大仕事を無事に成功させたほか、天候にもめぐまれ年貢収納も相応に成果を上げた。また、役人の出張による負担や、割り物の軽減にも見るべきものがあったと評価されている。
農政の上で、農民に課す労役の量も大きな問題であった。外嶋の現状認識のなかでもみたように、農民自身の計画的な農作業にも当然影響する。神尾はこの労役負担を軽くするため、また、戸前の実情を知らないため、思わず知らず地下の痛みになることもあるので、作業量や百姓の生活実態を調査するよう、吟味役に命じたことから、問題がおこった。
「そんな細々とした吟味など出来ない。」「出来ないとはどういうことか」と、言い合いになった。郡奉行の下平七左衛門は「大蔵はすべて明細に吟味してという考えのようだから、私は明日から出勤しない」と言い捨てて会所へ申し出た。下平の意見は、地下戸前の吟味など今まで例がない。戸前の生活をつかむのはよいことだろうが、こんなに広い領分、なかなか畳の上で話すようなわけにはいかない。だから、かれこれいじるより、《とかく仕来りをもって押っ付けておくのがよい》というものであった。この争いのさばきも興味深いものがあるが、家老共の入れ知恵で、神尾が自分から辞職するよう工作することで決着した。
農民の生産物を再生産も出来ないほど収奪し、逃散やつぶれ百姓が続出、人口減少が続く中で、財政再建など出来るはずがない。
3「義倉溜銭」の実施
@ 政策立案での工夫
宝暦11年には、前年の三田屋敷類焼、将軍の御使いとしての上洛参内、老中の招待、藩主の婚礼と莫大な出費が続いた。借知で生活に苦しむ家臣への、年末の手当もできない事態に立ち至った。重役らの、元締役はこの時こそ〃知恵を絞っ
て〃方策を立てるべき、との期待にこたえて案出したのが「義倉溜銭」であった。
『実紀』はその経過をリアルに記録している。
「御家中御手当の筋、米金御取箇(年貢)を以て差し繰り候道これなく候間、諸商売物へ過分にこれ無く、その程を積もり、少々ずつ溜銭を申し付け、上よりも追々加金仰せ付けられ候はば、その分を以て御家中御手当に差し向け、その金高増加にしたがい、町中窮民どもを相救い、郷村手余り地片付けの貸方、社倉の取り計らい存分に及びかね候上は、この分をも相補い然るべし。この如く候得ば士民の御手当のみならず、御内証の差し繰りも致しよくこれあるべし。」
これは先任の元締役井深主水が、その思いつきを兼任元締役小山田伝四郎に話しかけた記事である。正直に語られているように、ここでは「義倉」の話はないし、年貢のやり繰りではどうしても出来ない、家中の御手当捻出のためと、明白に述べられている。藩財政からの加金(支出)もあって金高が増加すれば、町郷村への手当や貸金にも回せるし、元締方の資金繰りも良くなる、というのである。
これが、会津藩の消費税「義倉溜銭」の発端であった。
この溜銭を政策として具体化する過程で、受け入れられ易くするため、〃口当たり良く、耳ざわりよく〃する工夫をこらしていく。こうして小山田らが〃知恵を絞った〃結果が次のものである。
第一、義倉の主意を前面に立てる。領内士民の不時の入用を助ける「義倉」を設ける。その元金として1万両が必要であるとする。
第二に、諸商売物より口銭をとるのだが、「義倉」の元金を溜めるということで正当化される。士民のための義倉であるから、本来なら領主、士農工商が分担して出し合うのが筋だが、現状では四民ともに出金できる状況にないから、商売物に掛けることにする。しかし、四民がみな〃広く薄く負担する〃ことで「自然と四民よりの出金に相成り候」というのである。ここでは、本来の領主の責任が棚上げされ、自助が当然視されるというスリカエがある。
第三に、売れ行きに響くとか、事務が面倒などの予想される町方の反発への対策として、一割と、少分で計算を簡単にした。社寺祭礼にしばいや見世物興業を許し、市を開くことを認めることで、人気をなごませ活気をもたせ、商売の活性化、遊び要求を取り上げることで切り抜けられる。
A重役の検討と実施
小山田、井深の申し出を検討した重役は、次の3点を下問する。
@領内の風俗はどうなるか。
A町家の障りにならないか。
B値段があがって買人が痛まないか。
二人の返答はこうであった。
@物真似(芝居など)の類は、大勢集まって騒がしいことのないよう、町同心、 目明かしなどを巡回させる。その上、その筋に得手な宿屋敷寺沢四郎左衛門も 加えて取り締まらせる。
A少分の出銭とはいっても、溜銭だけの値上がりはさけられない。
Bしかし、少分なので買人が痛むということはないだろう。
これを受けて、加判の者一同で詮議した。溜銭というが実は日銭を取ることで、
前々より運上または役銭などはあることだが、商売物から出銭させることは、古今にないことである。しかし、家中の困窮を見捨てるわけにはいかないとして、 「時勢止むを得ず、この通り取り計らい候ほかに見込みもこれ無」いと、実施について藩主補佐容章に伺って裁可をうけ、宝暦11年10月9日に実施を申し渡した。
B取り立ての実務
10月24日義倉方役人として、寺社方下役上田直助が登用された。上田は「溜銭の組み立て最初より相まかせ候」者であった。又、後町の問屋菊地伝左衛門を検断同格として、溜銭の収納事務方に加えている。これは、新規の計らいで町中の疑惑もあることなので、町家の者どもよりも取り立てないと、差し支えがあるということであった。伝左衛門は調達金やその外の出金など、町人をまとめてよろしく御用をつとめてきた者とある。
「義倉溜銭」は、各商売人が納入する義務を負った。
商品毎にそれぞれの売上から、溜銭部分を担当者に納入する。重役協議の中で「溜銭というが日銭を取ること」とあるので、一日毎に集計し、翌日に溜銭として集金して回ったのかも知れない。
新規のことでもあり、取り立てから納入までの指導や、取りまとめの総責任者として、検断簗田仙右衛門をあてた。各商品毎に6部門に分け、6人の検断が分担して行った。簗田家に残る「宝暦11年義倉方御用日記」によって作成された一覧表が、『会津若松史4』(243ページ)に載せられている。これによって紹介する。
森 惣兵衛 (繰綿、他所足袋、堺古手、地足袋、他所江戸古着、町郷村古手、 伽羅油、味噌醤油)
鈴木八兵衛 (塗荷物、町郷村流質物、煙草、東木地、紙、他所煙草入)
西田彦治郎 (水油、蚕養種、雑穀、こんにゃく玉、蝋燭、松ぼくり、暦、他所 砥石、茶、他所出絹糸)
小池市之丞 (呉服小間物、諸材木、竹、絹布古手小道具、越後出薪、流質小道 具、菅笠蓑、紅花、漆、紺屋、他所水こんにゃく、他所払ふし)
菊地伝左衛門(延鉄、瀬戸物、他所絹売、雛人形、太物、地もくさ、肴、ぜんま い、砂糖、地薬種、篩、他所自持来売薬)
佐々木弥衛門(菓子饅頭、鍬、藍玉、真綿、麻苧、他所出むきくり、しょうふ)
4「義倉溜銭」への批判と反論
藩主補佐容章溜銭が実施されたことで、年末の12月15日には家中に対し、の批判的意見早速、知行高百石に15俵ずつの割合で御手当米が支給され、その困窮を救うことになった。批判はあっても、まず実利として示されたわけで、当初の批判は実益で押さえ込まれたとみてよい。
しかし、翌年末にも同様の割合で御手当米が支給されたが、この時は、「義倉溜銭」を以て渡す以上、元来「義倉」は四民のためとして設置されたのだから、家中だけでなく、少分でも町郷村へも手当すべきである。という批判を受け、町方へ千俵、郷村へ2千俵を出した。人口約13万人余に3千俵である。
百石以上の知行取侍560人余に約2万俵。3500人の足軽に約1万俵の割合であった。
宝暦13年、江戸町人森田屋新右衛門が会津での銅鋳銭を願い出たとき、年に千両ずつの運上金や領内銅山の賑わいを思って、家老はじめ重役一同は大変乗り気になった。ところが、藩主補佐容章は、「義倉(溜銭)取り計らいも他国へ響き、その上鋳銭などと言い出したら、会津ではもっぱら利を好んでいるように受け取られる」と反対した。利に走って金が入っても「暮らしの本を立てなければ改善しない」との考えを度々書き送っている。(例えば、『実紀』宝暦8年5月2日の記事では「御内証御暮方只今迄の御振合を相改め、御手元を始め其外万事は入方の規を相立て、厳重の御省略考量を以て、御取箇の不足を補い」など、藩主の御手元金にまで踏み込んでの倹約を、具体的に進言している)。義倉溜銭の実施を裁可した容章も、内心では反対であったとみることができる。
翌明和元(1764)年二月に、吟味所へ狼藉者が忍び入り、3人が斬り殺され1人が手疵を負うという事件が起きた。犯人は家士の悴二人と町同心であった。義倉への批判を差し止めるために、歌舞伎狂言など物まね興業を認めた結果、犯人達は遊ぶ金欲しさに忍び入ったのだと『実紀』は記している。心配した風俗の乱れが、足元からも始まっている。
藩主容頌の批判こうした事件の発生もあって、在邑中の容頌は、新規の取り行と小山田の弁明いで家中の風儀が悪化し、町在郷ともに難儀とのことだから、「できたら(義倉溜銭)を中止するように心掛けるべきである」と、度々もらすようになっていた。
参勤出立前の三月、藩主に対し直接弁明するよう、小山田伝四郎が召し出された。この弁明は、「義倉溜銭」がどのようなものであり、何が問題にされ批判されているのか、それらに対する小山田、井深らの表向きの反論である(資料1)。
しかし、この三月中に容頌から改めて、「新規の事を中止するよう僉議せよ」との下命があった。重役たちも、御前での弁明とは別に井深・小山田をよんで、見込みを尋ねたたところ、次のような書面での申し出があった。それは、「不正は承知のこと、外によい方法があるというなら中止されても結構」と、開き直ったといってよい文面であった。御前での弁明が表向き、公式論なら、ここでは本音で反論していて、その実態を示している。要約すると次のようになる。
@ 最初から申し上げているように、やむを得ず一時しのぎに実施しているので、
善事といえるものではなく、永久に取り行うものでもない。内証方お直り次第 速やかに止めるべきものである。ついでに言えば、世上で「甚だよくない事だ から速やかに取りやめるべきだ」と言っているが、今更世評までもなく、不正 のことは誰も弁えていることである。
A しかし、御取箇の耗減、蝋の売り落ちで内証差し詰まり、御借知(知行カット)
を返される術もなく、加判の者(家老、若年寄、奉行をいう)の意を受けて、 愚考を申し上げ(それが採用されて)実施したのである。
世間において「相止めて然るべし」というのは、借知は返さず今のままで、 下され米も出さなくてよいから中止せよというのであろうか。もし止めてもやっ
ていける方法があれば、それでやっていくべきであろう。どうするかの方策も 無く、妄りに、ただ中止すべきだなどというのは、はなはだ無責任で為になら ないことである。
この義倉をずっと続けていけば、財政は改善され借知も返され、不時の備え まで出来ことになる。何ににも理屈はあるもので、このような事を見ずに、た だこれは良いあれは悪いというのは、世に言う口才の類で、政治の害になるも のである。
B 今日のこと、急事にのぞんでは、無理な取り行いも敢えて悪いとは言えない。
C 物真似等の取り計らいが風俗を乱している、と言い触らしている者がいると のことだが、風俗を乱すとは何を以て言うのであろうか。江戸では新規の取り 計らい等ないのに、百年来の珍事があり、また、物真似など無かったころにも、
大罪を犯した者も少なくない。
物真似と風俗は関係ないのである。その証拠には、上方、江戸の風俗は会津 より劣っているはずだが、会津が上方、江戸より良いということでもない。
D 財政のやりくりも良い方に向いているのに、世評のように中止すれば、何も かも崩れ果てて、どのようになるか計り知れない。
しきりに風説が広がるのは、だれかれ打ち寄って評議しているものがあると 思われる。この上は、加判の者へもいろいろ申し出たり、または御前の御耳に 入れるものが無いとは言えない。
とにかく、為になるよい仕法があるなら、お尋ねのうえ取り行わせ、義倉・ 物真似・酒造役を止められても結構である。
加判の者は、「かねがねお尋ねになられていることなので、御手元に差し置かれて緩々御覧なられるよう」藩主に申し上げたところ、「持参したなら読み上げよ」とのことであった。即座に読み上げたところ、終わって、「当分いかように指図致し候哉」との下問があった。
「この両人の存寄の通り成し置かれ候ほか御座あるまじく、此の段にわかに相止められ候ては、考量の筋これなく、御内証かた、遊ばされ方御座あるまじく」と申し上げたところ、「其のとうり致し候よう」と仰せ付けられた。明和元年三月二九日のことと「実紀」は記している。こうして「義倉溜銭」は継続となる。青年藩主の意気込みも、財政が厳しくほかに仕法がないとの事で押し切られた。 5 政策の継続と一層の財政危機
@山形城の在番で2万石の軍役
元締役小山田伝四郎、井深主水の弁明、ほかにどうしようもないとの、加判の者たちの進言により、「義倉溜銭」政策は継続と決定された。その上で4月1日容頌は参勤交代のため江戸に出立する。このような経緯を経て、かえって、いわば藩主のお墨付きを得た形で続行されることになったので、藩内の批判的言動は下火になったと思われる。
この年6月明和と改元(1764)、7月に最上山形城を2万石の軍役で在番することを命じられた。最上の松平和泉守が国替えとなったからである。(「福島県史10下」昭和43年福島県発行、4頁には「役禄2万石を受ける」とあるが、これは誤りで軍役であった)。在番の経費はすべて藩の持ち出しである。これが苦しい財政を一層圧迫することになった。
翌2年の経費は4千両ほど、3年には6千両になると記録されている。藩の必死の工作によって4年2月に軍役が解かれ、幕府から扶持米2千俵が支出されることになった。在番の人員もこれに応じて減員されたが、新しく城主となった秋元但馬守へ引き渡す、5年3月まで在番が続いた。「義倉溜銭」による年間収入6千両が、すべて消え去る過大な負担であった。
A再度の廃止指示も実現されず
風俗の乱れ容頌は参勤に出立したその日、城を出るとすぐの博労町を通りかかっ
た時、千住辺にいるような風変わりな女達3、4人を目にとめた。その場では、越後の女達が二本松、郡山へ行く途中に止宿しているところと、供の者が取り繕っ
たが、この後、隠密にかくし置くとの風説もあるので、「売女体の者差し置かざるよう」きびしく町奉行に申し渡している。『実紀』の記事は、町方の賑わいのために物真似(芝居など)興行などさせたところ、旅籠屋や煮売茶屋などに給仕女を置くようになったり、禁制がゆるんで風俗を乱していることを指摘する。 翌2年3月には、家中の若者の風俗の乱れを厳しく教戒するよう、父兄に申し付けたのに、4月には男色での争いが種々表ざたになった。父兄も罰せよと改めて指示し、6月には売女を抱え置く者をもっと厳しく取り締まるよう命じている。
また、近来町人の妻女まで風俗を取り失い、夫が他出している時でも、昼夜に限らず人を集め騒がしくしているとして、厳罰に処すよう命じたりしている。
他の非法を行うよりこうした事態から、容頌は再度義倉・物真似を止めるようかえって御仁政に 指示する。明和2年2月、かねてから容頌自身の執政を進言し、補佐の任を断りたいと申し入れていた容章の辞任が認められた。名実共に5代藩主として執政する容頌の、前々からの思いを込めた指示であった。
しかし、財政危機の現状では廃止出来ないとの加判の者共の進言で、またまた実現されなかった。井深主水の意見では(小山田は明和元年7月11日、御蔵入郡奉行に転じ井深一人であった)、やむを得ない借知だが、そのため家中の者はお手当なしに生活できない。「義倉」の計らいでやっと手当しているのである。この上なに程節約しても義倉程にはならない。山形在番も終わり、厳重の省略をすれば止められるかも知れない。「物真似」は、窮民どもが営む渡世でもあり、極貧の寺院へのお手当にもなっている。今のまま据置きがよいとのことであった。
これを受けて加判の者(重役)が進言したなかに、御政道の上からは常道とはいえないが、莫大な借財の中、「義倉」の取り計らいは、他の非法を行うより、かえって御仁政ともいえようとある。物真似は窮民が営みやすく、人情も和ませるので、いずれも継続するのがよいとの進言であった。
B明和2、3年の財政
明和2年末の社倉の実態を見ると(資料2)、惣数(籾)195,217俵の内、21,200表は内証差し支えのため元締方へ引き替え、54,000俵は以前に引き替えたまま返済がないので、空物で差引しているとあり、合計75,200俵は(38・5%)は藩財政に支出している。その他にも6,000俵が融通されているので、4割以上が、本来農民を救うという社倉の目的にはずれ、藩に吸い上げられているのがわかる。 同2年7月、御加恩や諸士2、3男などの新規召出、また下級御家人がしだいに増えているが、財政上何らかの対策が必要との意見具申があったが、家老共の評議の結果は、今のままでよいであった。
享保17年から宝暦6年までの24年間で、増加した家臣への給付高は米6384俵、金28両3分、銀20枚。その他扶持米238人分であり、何らかの歯止めは必要であった。
同年8月の申し渡しでは、江戸の御納戸役が交代引継に現金現物の確認をせず、
御召物など無計画な購入で、39反も余計に注文したり、帳記も明細でなく控えもないため、紛失物があっても調べようもない状況だったことがわかる。
明和3年10月、容頌の財政に関する下問にたいし報告がなされた(資料3)。
それによれば、江戸での年中入用は寛延2年が9,600両、明和2年は27,000両である。借金は明和元年で40万両におよんでいた。
C空手形の発行と井深主水の失踪
手形書き換えの強制明和3(1766)年の秋、米を担保に前金を受け取っていたが、期限が来ても渡すべき米が5万俵余不足し、どうにもやり繰りがつかない事態になった。元締が発行する手形はなかなか現物米にならないというので、とんでもない安値にされ、それが米価全体を下落させますます困窮する。しかし、藩の入用米や回米分を渡すわけにはいかない。手形の書き換えで当面を切り抜けることにした。
今まではどこの組(十数か村をまとめた行政単位)から納入され、どこの蔵にある米と手形に記載したので、各組からの納入米を相互に融通することが出来なかった。今後、蔵所だけ記載した手形にすれば、現米がある蔵から渡せるので便利がよくなる。また理由なく手形を差し出させるわけにはいかないが、手形を書き換えるという名目なら出させられる。いったん元締方に差し出させ取り締まるなら、米価引き上げも出来ると申し出る。加判の者共は、郡奉行勘定奉行共に尋ねたうえで手形の改定を命じた。こうして明和3年の年の瀬は越すことが出来た。
明和4年に入ると、厳しい倹約が必要であるとして、後述のように広く意見具申を求めたり、塩の専売を止めて古来に復し、新潟直仕入れ商売勝手となったり、
そして3月29日にはついに物真似が中止となった(理由は「義倉」が定着し物真似の助けがなくともよくなったからと説明される)。さきに述べたように、3月には山形在番が軍役でなくなり、2千俵の扶持米支給となる。こうして、何かが変わっていく気配がしたところで、井深主水の失踪事件が起こった。 井深主水の失踪明和4年4月25日「町奉行大元締兼務井深主水義、御内証方差繰ニ相迫り御家退出」と『実紀』は記している。年末に手形書き換えを強制してなんとか年を越しても、もともと空手形で現物米金は一切ないのだから、期限が来ても手形の引き替えは出来ない。催促に追われ進退きわまったのである。
「延ばしに延ばしてきたが、ここで金3,500両か米15,000俵の現物があれば何とか切り抜けられる」と、加判の者共へ訴えるが、「いかようにも差し繰りせよ」
というばかりで、責任はすべて元締方に押し付けられた。
家中よりは「去年の下され米は空物だから実米を下され」と迫られ、町方からは手形を持っての催促、御普請方からは支払い代金の請求と、衆人の恨みは主水の一身に集まった。〃一寸一歩も其の身を置くところなく〃ついに病気と称して家に引きこもってしまう。
ひそかに、奉行所と元締役所あて2通の書き置きを認めた主水は、「調達金の見込みがあるので、今夜極秘に白河へ出立するが、帰るまでは重い病気と言って、
絶対他に知られぬようにせよ」と、よくよく妻に言い聞かせ、召し使い一人を連れて家を出る。4月25日の深夜だった。粕壁で召し使いを帰し江戸へ向かったという。妻は主水の言葉を真実と思い込んでいたが、予定の29日に帰らないので30日には伜や親類に打ち明け、心当たりを尋ねたが行方が知れない。5月2日役所に届け出て表ざたになった。4日に書き置きをみつけ、5日に召し使いが帰って失踪が明かになった。
2通の書き置きが藩主容頌の前で読み上げられた。
いろいろ苦心してやり繰りを続けて来たが、どうしようもなくなってしまったと、経過をるゝ申し述べ、面目ないことだが、諸帳面、現金を調べてもらえば明かなように、ただの1銭なりとも私してないのが、せめての申し訳である。自殺も考えたが、死ねばそれで済むが、御恩の万分の一にでも報いる道がなくなる。生きていれば、少しは御為になることがあると思い、退出することにした。こんなことを言うと、誠にいいようなことを言っていると思われるかも知れないが、数年来、私は他の誹謗もいとわず、一身を捨てて御為を第一に勤めてきたつもりである。今となっては十中九は偽りを申し上げたようになって、誠に心外でならない。と書き、今後の見通しとして、大倹約を用い、15,000俵か3,500両の引き替えが出来さえすれば、他の諸支払いは後に延ばすこともでき、秋までの暮らしが立つ。秋になれば新納があるので、何とかやっていけると記していた。
役所で調べたところ何の不正もなかった。
また、新潟、白河、福島近辺まで、御徒目付など出して尋ねさせたが何の手掛かりもなく、容頌に報告したところ、それまでということになった。
重役の責任空手形の発行を命じたのも、金3,500両か米15,000俵を何とか都合してほしいと嘆願され、何もしなかったのも、加判の者共(重役)であった。「義倉」の取り計らいは、他の非法を行うより御仁政といえる。といったのも加判の者共であった。
6 「義倉溜銭」の廃止
@新元締役の登用と罷免
倹約についての前述のように明和4年2月、藩では倹約方の意見を求めた。町意見具申 奉行野村左衛門、郡奉行原源八、柴清吾、普請奉行中沢市大夫、
大目付日向造酒など多くの意見具申があったが、それぞれが指摘する主な点を要約していくつか列挙してみよう。当時の状況がある程度読み取れると思う。
◇太平百年にも及べば驕奢に移るのは古今の常、急に質朴に移るのは容易なこと でなく、それには上様にて、厳しく倹約を示すことが大切である。そうすれば、
下々にても速やかに従うようになる。
◇近年は利を争う風儀になって実事を失う傾向がある。潔白で律義なものが光ら ず、山師体の風俗を羨ましく思う人情にあるが、これを改めるには、利のため の政治のように受け取られる、物真似、義倉、酒造米渡方、塩、酒銭等を段々 にやめることで、そうすれば民心感服するであろう。
◇四民風俗はなはだ取り失い、媚賄の筋が増大している。義倉溜銭、酒造方先納 などで近年諸品高値になった。
◇寛延2年の倹約令を実行する。
◇去年中は江戸表(費用)1年に3万両を越す金を用意したが、それでも諸支払 い方、諸渡し方を速やかに済ませなかった。
◇江戸上方よりの金子を会津に入れず、江戸入用分まで、会津から金子を取り集 めて送っている。1年1万両としても10年で10万両。会津の金子が払底し て、不時の入用に甚だ差し支える。
これらの具申を主水にも見せ、意見も聞いたうえで、取りまとめた結果を奉行高木縫右衛門は、家老井深茂右衛門に次のように申し出た。
「結論として、義倉などの取り計らいは、誰もが相止めるべきというばかりで、
どのようにすれば良いのか代案がない。これでは取り行いの障りになるだけである。大小の御目付の中にも、同様に考えている者もいるから、上様へも存寄(意見具申)を出すものもいるだろう。
義倉など決して好ましいものではないが、止むを得ない。内々の実情も知らず、
ただ止めろというばかりでは、かえって差し支えになるだけであるから、(止めるべきとの)風説など、広がらぬようにすることが大切である。
今のところ、主水のほかに、御内証を任せられる者は見当たらない。」
倹約についての意見の集約は、このように「義倉溜銭」継続策のささえ、確認に利用される結果となったが、他面では、さきにみたように、塩専売や物真似の停止という、これまでの政策の変更をもたらす働きにつながったとみてよい。
原源八、柴清吾井深主水のほかに適任者はいないとされたが、その主水が失踪してしまっては止むを得ない。この年8月町奉行原源八、郡奉行柴清吾が元締立入勤(元締役兼務)に登用され、ただちに今後の方針案を示すよう求められた。前々より打診があり、それなりに構想を練っていたとみえ、二日後には存寄を提出した。長文なので主な点を要約する。
@井深主水は(工面せよと命じられれば、とにかく何を置いても)差し支えないように、都合をつけることを第一に思い、はなはだ無理な方法で借金をしてきた。「町方には主役の権勢をもって金を出させ、郷村も威勢をもって出金させることができる、と考えたことから百非(いろいろな不正)が起こったのである。」
A私共の考えはそれに反し、これまでの旧弊を改め、たとえ初めに不服が見えても、正道なので結局は服するから、段々に財政も取り直して安定する。という考え方を基本として、
@第一に諸向きの不用を省き、締まり方を第一にする。
御手元の出費もなるべく減らす。すべて無理な借金は、結局は御名を汚すこ とになると思うべきである。
今は諸向き安逸になれて、紀律を厳しくし正道にもどすことをいやがる風潮 がもっぱらで、媚諛(こびへつらう)をもって自分の領域を守り、我意を通そ うとする者もないわけではない。このような人情の中へ、正当の仕法を持ち込 もうとすれば、これは大変とばかり、取り止めさせるため種々の邪説を唱え、 讒言などのたくらみもあるかと思われるが、もし奸邪のたくらみにおかされ、 中途で挫折すれば、どのような事態に至るか測り知れず、再興の道はないと思 うので遠慮も顧みず申し上げる。
A御分規(予算と執行細則)を立てるには、大事細事とも家老、奉行の一致した 決定が重要で、係分担制ではまちまちになるので、分担制にはしない。
B何をどう節約し予算をいくらにするかは、御手元は御用人、奥向きは老女。普 請方、吟味所その他すべては元締所と相談して決める。
こうまでしなければ、今迄続いてきた諸向きのゆるみを締めることはできず、
これなくては仕法は遂行できない。だが、二人がどのように粉骨を尽くしても、
諸係と掛け合い、締まりが行き届くようにするのは、言葉は過ぎるが、例えば 大軍のなかへ二本の槍をもって打ち向かうようなもので、はなはだ難しい。
だが、(殿様)の御威光をもって紀律を立て、違反者は免職にする堅い決意 で命令を出されれば、道は開け締まりの仕法は成功する。
C悪法をもってした5万両の借金や、不埒な方法で調達した金は、正道信義の道 をもって調達して返済する。
D政策の実施にあたっては、大意を上様へ申し上げ、御内存を承知したうえで取 り計らいたい。場合により私共より直接申し上げることも認めてほしいし、他 の存寄なども名前をあかして残らず見せてほしい。
E分規を立てての暮らしは、古来は専らこのようにして節倹をし、年々の残金を 御囲い金に備蓄されていた。徳翁様(三代藩主正容)は「年々の入りを計って、
出し候事をはかる」よう、晩年に仰せ出されたのだが、いつとはなしに分規の 仕法が廃れてしまったのである。
以上のことを、御内証相続の基本としたい。
この存寄にたいし、加判の者共は「両人の儀、法を越え候紙面、思召に応ぜず」
と免職にする。在職わずか8日であった。
金繰りがつかず、大元締役井深主水が失踪するという事態にまでなった、財政危機のなかでも、本格的な厳しい倹約を実行しようとすると−すでに度々倹約令が出されているにもかかわらず、実情は二人が存寄で述べているような状況であっ
た−提案は却下されたのである。
何が「法を越え」ているのかは、述べられてはいない。しかし、御手元や奥向き、上様の決意にまで具体的に踏み込んでいることが、かんに障ったであろうことは間違いない。加判の者共は「自分の領域を守」るためにも、このような提案は認めるわけにはいかなかった。
これが却下されるようでは、改革への意欲を失わせ、すべて事なかれ主義に流されて行くであろうことは、明かである。倹約第一の藩主の断固とした方針。奉行から家老までの加判の者共の一致した決定。上様の内存を得ての、分規による予算生活の実施など、二人の提言は、この時期の藩財政の問題点を、明示していると言えよう。
A空手形事件の始末
井深主水の出奔によって、主水に責任をかぶせることで当座はしのげても、以後の借金は殆ど望めないことは容易に想像がつく。元締役所内部から金子忠太、武藤十右衛門が登用されたがどうにもならない。武藤にはそれなりの調達力があると、重役達はみていたのだが、会津でも他国でも金主共が不服で、面会することさえ拒否される事態であった。
やむなく免職にし、9月19日御勘定頭山室太郎右衛門、吟味頭遊掛市右衛門を「当時至って難しく…この両人とても差し繰り調うべきやも計り難く候えども、
ほかに相応の者もこれなく」(実紀)後任にあてる。
手形回収と当面の財政運営失踪事件後6月の時点での収支見込みは表のようで 明和4年6月〜閏9月の収支見込 あった。不足米84,000俵のうち19,600俵
┌─────────────────┐
│ 米方 │ は、閏9月迄の家臣への扶持や下され米、
│ 閏9月迄入用の米 29,100俵 │ 不足金 6,803両は今からの会津、江戸で
│ 実米を備えられる分 9,500俵 │ の経費で、両方ともなくてはならないの
│ 小計(差引不足) 19,600俵 │ だが、どのようにしても調達できないと
│ 元締手形出し過ぎ分 │ 申し出たところ、「なお厚く考量せよ」
│ 空米手形の分 51,060俵 │ と書面を返されてしまった。
│ 前金受領分 13,340俵 │ @江戸小納戸御囲い金の流用
│ 小計 64,400俵 │ しかし、どうしようもないとの再三の
│ ☆合計実不足米 84,000俵 │ 申し出をうけ、江戸御勘定頭へ申し付け
│ │ たところ、「これまで手をつくし、この
│ 金方 │ 上考量はもはや無い」と、江戸小納戸御
│ 閏9月迄の入用金 34,293両 │ 囲い金(非常用備蓄金)の流用を申し出
│ 入用見込のある金 27,490両 │ た。こうして6月17日に金1,700両を流用
│ ☆ 差引不足金額 6,803両 │ して、当座をしのぐことになった。
└─────────────────┘
A御囲い社倉籾の流用
7月支給の扶持米や下され米の手当がどうしてもつかない。もし扶持米を渡さなければ生活ができない。非常の差し繰りも止むを得ないと、御囲い社倉籾を流用することになった。
御膳籾(藩主ら城内での食用籾)6,600俵が御蔵にあるが、ここから5,000俵を流用し、その不足を御囲い社倉籾から出せば、一体への聞こえも、民情も甚だよろしい。また、この秋の年貢からの返済も一括でなく、7カ年賦にして、その分御用達共への返済に振り向ければ、彼等も有り難く思うであろう。との郡奉行、元締方の提案が受け入れられ、6月20日に実施された。
B年貢金の早期納入
江戸、会津とも使い金が全くなく、毎日の支出ができない。重役らは、秋までの短期利付き調達金を、領内すべての町村へ命じることを伺い、容頌も認めた。ところが、郡奉行共は反対する。
先年の上京時の調達金も、この春の調達金も全く返済していないので、無理だというのである。年貢は十月から取り立てるのが古法だが、早納は以前にも例のあることで、8月よりの早納申し付けがよいという。領内には調達に応じられる金子はもはや無かった(莫大な正金が江戸へ運ばれたとの存寄を先に見た)。
C空手形の始末
主水の出奔で手形が消滅したわけでなく、再び取り付けが始まった。しかし、江戸、会津目前の生活費の捻出に追われ、お手上げの状態であった。
元締役所から、例年のように酒造先納金(約1,500両)を命じたところ、昨年の空手形を持ち出して応じない。町奉行に力を貸すよう頼んだが、「これ以上に不信をかうようなことがあっては、他の取り扱いにも支障がある」といって、納得しない。
奉行より町奉行に5千両の調達金を命じてもらう。数年来元利ともに返済がなく、身代困窮に至った者もある中で、御用達町人としても容易でない。現金は酒造先納金をふくめ1千両しか出せないという。元締方では酒造先納金は1,500両を現金で、そのほかに5千両の調達金をと譲らなかったが、10月になってようやく解決した。
空手形51,000俵のうち17,000俵は、買い取るか、今秋の年貢米で現物を渡す。残34,000俵は新しい手形と交換する。酒造先納金分は実米を渡す。
関係者の処分奉行木本九郎左衛門(この時は若年寄)、高木縫殿右衛門は主水の仕法をよしとして悉く任せたいた責任があると、6月5日に家老簗瀬三左衛門から注意。主水と共に勤めた元締方並びに関係役人は9月19日にお叱り。主水の伜縫殿之助は城下お構い郷村住居の処分となった。
B「義倉溜銭」の廃止
宝暦11(1761)年に実施された「義倉溜銭」は、当初から厳しい批判を受けていたが、「義倉」は「偽装」であることが、だれの目にも明かになった。
藩政が利のための政治に力を入れることで、人民も利を争い、まじめで律義な者が光らず、世が乱れてきた。これを改めるには「義倉」など止めるしかないとの意見が、現実の日程に上ってきた。
空手形などの不正、虚言、権勢をふりかざしての威圧などから、人々の不満は高まり、ついに町奉行としても「御仕置き筋に相障り候へば相止め然るべき」と申し出ざるを得なくなったのである。内部で当初からあった、儒教的倫理的反対論から、現実政治をおびやかすものとして、現実的政治的反対論へ進化発展したのである。
元締役に尋ねたところ、年に2千両程で(今までは6千両であった。消費の激減か過少申告か)これにかわる財源はないが、御仕置きにかかわるとなれば、何とも言うようがないとのことであった。これを受けて加判の者共もついに廃止を決意する。
しかし今まで良いとして実施してきたものを、今更、廃止の理由などくわしく申し上げれば、今までのことが皆まやかしで、始めから良くなかったことになる。
そこで、何となくひと通り申し上げて、裁可を受けようということにした。『実紀』は次のように記している。
「義倉溜銭相止められ然るべき旨奉行申し出、元締へも相尋ね候ところ、さして御入方おぎないにも相ならざる旨申し出候。せんだって義倉溜銭相止めるべき旨、仰せ出されも候えば、その通り申し渡し候旨、これを言上に及ぶ。」
明和7(1770)年12月19日(実施以来10年目)のことであった。
ま と め
本稿では「義倉溜銭」と称する人を欺く悪法、10%の消費税が、240年余りも前に会津でどのように生み出され、多くの批判をあびながらも、なぜ10年も継続したかを第一に明かにした。宝暦年間(1751~1763)は幕藩体制の危機が始まる段階といわれているが、会津藩でも宝暦3年の借財36万4千両、農村人口の大きな減少、手余り地(耕作放棄)が4万8千石への増大という危機を迎えていた。 農民の生産物を再生産も出来ないほど収奪し、逃散やつぶれ百姓が続出する状態では、財政再建などできるはずがない。他人の年貢の弁納を廃止し、年貢を軽減して、百姓の生活が成り立つようにすることを基本に、その範囲に支出を思い切って削減することなしに、藩財政の再建はないという提言も、各所で紹介した。
しきたりに従っていればよいなどの、旧守的事なかれ主義、聖域を設けて節倹など受けつけぬ強力な人脈は、大胆な改革案を「法を越えた」ものとして拒否するなど、抜本的改革は天明の大ききん後まで引き延ばされた。
農政改革の提言が次々とつぶされ、改革への意欲を失わせたところで、商品流通過程への課役へ目が向けられた見ることができる。「義倉溜銭」を立案実施した小山田伝四郎、井深主水らに代表される立場、元締役の任務は、必要だと求められれば、どのようにしてでも調達することという、借金差し繰り財政が破綻したところで、再び農政に目が向けられた。
明和4年11月の手余り地取り計らいにつき、田地生帰り方任役を置くの記事。同6年12月の死失などで無跡になった百姓共の、五人組や村弁納分で、年賦上納の米金残らず棄捐(米13,374俵余、金2,619両、銀688匁、銭495貫文)の記事は、
農政について『実紀』が記す久々のものであった。
宝暦〜明和の危機乗り切りのため、どのような政策が浮上し実施され、また実施されなかったか、その間の藩上層部の現状認識と対応を探り、歴史の実体に迫りたいたいというのが、第二のねらいであった。ご批判を頂ければ幸である。
(1998/6/16)