『みだれ打ち研究ノ−ト』インタ−ネット版   書評は、はじめのものが『生活指導』誌98年2月号に載ったもの、後のものが『同』4月号に載ったものです。後のものは、ようやくアップできました。(4.28) 


  安彦忠彦著『中学校カリキュラムの独自性と構成原理』 書評

  前期中等教育カリキュラムの共時的・通時的な比較研究

                                           西内 裕一

 本書は、カリキュラム研究の第一線で活躍する安彦忠彦氏の学位論文を一般向けに書きあらためたもので、氏の問題意識と研究の成果が簡明にまとめられ、提示されている。
 氏は、本書において「前期中等教育の独自性は何か」という「問い」をたて、その答えを「『個性の探求』と『自立の基礎』の二つを保障すること」としている。
 第一章では、教育課程の全体構造における中等教育課程の位置づけと性格が明らかにされている。
 今日の日本の学校教育が、「公教育論的危機−道徳教育的脅威」「学校論的危機−社会教育・生涯教育的脅威」「文明論的危機−学問的・社会倫理的脅威」という三つの危機的状況にあること、その中で中等教育課程は、「自我意識の発生」への対応と「社会的準備の必要」への対応をその中心的課題とするものであることが論じられている。個々の論点についてはすでに論じられているものばかりであるが、全体として目配りのよいオ−バ−ビュ−がなされている。
 また、中等教育における「一般教育」と「専門教育」とはどのような性格のものであるのかが論じられている。議論の対象が後期中等教育中心になっていること、また、「一般教育」に対して、やや新保守主義的な理解のしかたであるところが気になるが、手堅くまとめられ、問題の整理がなされている。
 第二章では、アメリカのジュニア・ハイ・スク−ルの成立過程をたどり、さらにその後成立してきたミドル・スク−ルに対して、その教育課程の特徴という面から検討がされている。
 ここでは、日本ではまだあまり行われていないミドル・スク−ルの教育課程の分析が注目に値する。とくに、その「探求的教育課程」の編成方法は、総合学習や「総合的な学習の時間」のカリキュラムを考える上で大いに参考になる。
 第三章では、イギリスのミドル・スク−ルとハイ・スク−ルの教育課程の特徴が、いくつかの学校に対する直接訪問調査によって明らかにされている。
 ミドル・スク−ルをどちらかというと小学校的にとらえ、ハイ・スク−ルを「前期中等教育」の中心的な学校ととらえて、その選択科目を「個性をさぐる」ためのものととらえているのもなかなか説得力がある。
 第四章では、ドイツのハウプトシュ−レを中心とする中等教育諸学校が検討されている。 ここでは、特に「実科学校」に着目し、それが中等教育の中核となることの意味がていねいに論じられているのが注目に値する。
 また、普通教育と職教教育の統合をはかるものとしての「労働教授(科)」への着目は、まさに「一般教育」と「専門教育」とをつなぐものとしての「総合技術教育」的教育課程の一形態を提示するものであり、きわめて示唆に富むものとなっている。
 第五章では、日本の「前期中等教育」をになう唯一の学校である「新制中学校」について、その前史・成立過程・指導要領の変遷がたどられている。
 第六章では、前章までで明らかにされた「前期中等教育課程の独自性」を一般化して検討し、それが「個性追求」と「自立への基礎」の二つであることがあらためて確認されている。
 そして、日本の中学校改革においては、@小学校の五ないし六年から前期中等教育学校に入れ、アメリカのミドル・スク−ルの場合のように、中学校三年を、高校の一年に上げ、制度的には「五・三・四制」か「四・四・四制」に変えること、A教育の内容と方法を、教科中心型から、もうすこしバランスのある、子どものほうに重点を移動させ、「個性をさぐる」ことができる型のものにすること、B子どもたちにもっと学習上・生活上の責任を負わせ、その種の経験を積ませて「自立」に向かわせること、が必要であるとする。
 また、「個性をさぐる」「個性を伸ばす」ためには、教科学習の場のみならず、より根本的な「学級生活」「学級づくり」の中で、一人一人の子どもが尊重され、その個性を含む「個人」が相互に認められ、鍛えられ、磨き上げられ、一層際立たせられるような、本当に民主的な学級集団にしていくことが必要であるとしている。
 終章では、自己教育力の育成の問題、総合的な人間学習・環境問題の学習の必要性、高校入試の撤廃による中高一貫教育、個性的学力形成の必要性、学校週五日制の問題が、いわば前章までの考察の応用問題として提示されている。
 注文を一つ。本書では、「カリキュラム」をほぼ「教育課程」と同等のものととらえているが、近年のカリキュラム研究の到達水準からいうと、いくぶん狭隘な把握であるといわざるを得ない。佐藤学氏の『カリキュラムの批評』(世織書房)と対比させてみると、「カリキュラム」の把握の仕方の違いは一目瞭然である。もっとも、そのことは本書の意義をいささかも損なうものではないが。
 本書はこのように充実した内容を持ち、学術論文であるにも関わらず平易な語り口でつづられた、欧米の中等教育および日本の前期中等教育の教育課程の歴史とそれらが抱える諸問題についての良質の入門書であるといえるだろう。                          <福島大学>

 


  千石保著『「モラル」の復権−情報消費社会の若者たち−』 書評

  ポスト産業社会・情報化社会における若者たちの新しい「モラル」の模索

                                            西内 裕一

  本書は、『「まじめ」の崩壊−平成日本の若者たち−』で、九〇年代初頭の若者たちの実体を鋭く描き出した、千石保氏の新著である。
 「まじめ」が八〇年代までの産業社会でのモラルであったのに対し、ポスト産業社会・情報化社会である九〇年代においての新しいモラルは、「好きなこと・やりたいことをやる」「好きなことなので、やるからにはとことんこだわってやる」ということであると著者は論じる。
 全体構成は、以下の通り。
「好きなことで輝く」若者たち−前書き
楽しさの創造−プロロ−グ
  貧しい創造の国・好っきやねん・究極の消費天国・楽しみの苦労
1ベル友の時代−情報化する人間関係
  うわっ面の友達・バ−チャルな交流・オヤスミのメッセ−ジ・沈黙の螺旋モデル・快楽のなかの孤独
2若者のIとme−自分探しと「拒否性」
  他人の顔色をうかがう・「あいまい」の処世術・仮名のつきあい・自分かくしの無党派・楽しさと逸脱
3オヤジの崩壊
  個室でケイタイ・嫁姑からの脱出・欲望の果て・新しい潮流
自尊の理念−エピロ−グ
  好きで選んだ道・熱くなる体験・起業家  志向・新・仕事好き人間・パノプティコンと自尊
 プロロ−グでは、「まじめ」の崩壊の後を受けてボ−ドリヤ−ルやバルトを引きながら、青年の現状を「楽しみ」と「悪」の共有状態であるとし、「違法性」の認識もその前の世代とはだいぶ異なっていることが指摘されている。特にブルセラや援助交際は法の問題ではなく倫理のすなわちモラルの問題であり、違法という認識はないことが示されていて、はなはだ興味深い。
 「一章ベル友の時代」では、親友という概念が変わってきたこと、無二の親友というのが、多くの友だちに「解体」してしまったこと、なかでも「ベル友」という新しい友だち関係が生じいることが述べられている。
 学校でも地域でも、たくさんの友だちがいることが評価されるようになってきている。
 「ともだち一〇〇人できるかな」なんていう歌も、近年よく歌われるようになってきているが、その問題性は、谷川俊太郎・斎藤次郎・佐藤学『こんな教科書あり?』岩波書店などでも指摘されているが、ここでも「親友」の意味の空洞化として論じられている。
 まさに、友だちは「真の友達」から「関係の友達」「量の友達」へと変わってしまったのである。
 いじめに関する「沈黙の螺旋モデル」、傍観者が螺旋状に加害者になっていくというメカニズムの解明も、示唆に富んでいる。
 「二章若者のIとme」では、「とか」「みたいな」「という感じ」「いちおう」というあいまい語が「チョベリバ」「超MM」(マジにむかつく)といったステレオタイプの物言いと相まって身内の結束を図りつつ対立・葛藤状態を回避するという若者の独特な言語的パ−ソナルスペ−スを決定していることが論じられている。
 「仮名のつきあい」では、出会いの情報誌「じゃマ−ル」を分析して「プリクラ族」と「ケッコン族」に分類し、そのいずれもが出合いを純粋に求めていること、そして変身願望を持っているが、ヴァ−チャルな世界では限界があることが指摘されている。
 「三章オヤジの崩壊」では、前著で明らかにされた産業主義の理念である「まじめ」が今や通用しなくなっていること、その象徴である「オヤジ」が、無視されたり、攻撃されたりする対象となっていることが明らかにされている。
 さらに親子関係が変貌してきていることが述べられ、その中で父親は子どもに「自尊と勇気を価値として教える必要がある」ことが論じられている。
 エピロ−グでは、高校生が「進学・勉強、知的興味派」「クラブ活動派」「非行派」の3つのタイプに別れていること、その中での学校文化に対する下位文化としての生徒文化の有り様が述べられている。
 そのなかで、「熱くなる体験」を渇望していること、またそういう体験を用意してくれる大人に対して絶大な信頼を寄せることが明らかにされている。
 また、「起業家志向」がアメリカなどでは強くなってきていること、日本でもじわじわと起こってきていること(インターネット利用のSOHOなど)、「面白いからやる気になる」ことなどが、実例を示しながら論じられている。
 最後に、裏表紙の<著者のことば>を引いておきたい。
「茶髪、ケイタイ、ベル友。援助交際、オヤジ狩りにいじめ。何をしても大人は叱らない。叱れない。若者たちは、際限もない「自由」をもてあましている。
 だが、好きなことを「選ばせる」と、彼らは驚くほど頑張り、光り輝く。新しい個性主義のモラルの兆しがみえる。その中核となるのは、「自尊」の理念であろう。」 <福島大学>


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