「おっきいリンゴとちっちゃいスイカは、どっちが大きいのかな?」これは、あるお笑い番組のコントで、松本人志扮する仮面ライダーZが、仮面ライダーとしては大きいのにウルトラマン的ヒーロー(変身することによって怪獣と同じくらい大きくなる)と間違われ、それと比べられて「ちっちゃ!」と言われたことに対する反論です。ま、このコント自体とても面白かったんですが、中でもこのコトバが私の頭に印象深く残ったのは、このコトバが「比較」ということの本質(つまり相対性)を見事に表しているなぁと感心したからです。ちっちゃいスイカはスイカの中ではちっちゃいけど、リンゴと比べたら当然おっきい。すなわち、「大きい、小さい」「強い、弱い」といった比較は比べる相手を変えれば変わりうるという、言ってみればごく当たり前のことなんですけどね。スポーツの大会でも「強い、弱い」や「速い、遅い」を比べ合っているんだとも言えそうですが、私は「比べる」ことと「競う」こと、すなわち「比較」と「競争」はちょっと意味が違っていて、スポーツする当人にとってスポーツは「比べ合い」ではなく「競い合い」であるべきだと考えています。では「比べる」と「競う」は何が違うのか?それは、「勝とうとする意志・意欲があるかどうか」ではないでしょうか?例えば「背くらべ」はもちろん背を「比べる」わけですが、もし比べた当人(兄弟とか)が、「この次は追い越してやる!」「いや抜かせん!」と、牛乳飲んだり煮干し食べたり川畑式伸長法(知ってます?なつかしー!)を試したりしてお互い勝ちたいと思い始めたら、そのことによって背くらべは「背競争(?)」に変わっていくでしょう。スポーツの大会でも選手が互いに「勝ちたい」と思うことによって初めて「競い合い」が成立するわけで、その意志・意欲が全く無ければ単に速さや強さを無機的、客観的、第三者的に「比べ」ているにすぎません。そうなるとスポーツする当人たちの質的変化は全く期待できないわけで、結果、試合をしても「自分より弱い相手よりは強いけど強い相手よりは弱い」という、すんごく当たり前な事実を確認するだけになってしまいます。つまり「比較」は第三者が複数から一つを選択したりするためには有効な手段ですが、それ以外の場面ではあまり意味がないような気がしますがどうですか?だって比較はあくまでも物事の相対的な位置を確認するだけですから・・。今、小学校の運動会では初めから足の速い人が勝つに決まっているような単純な徒競走は行われなくなっているという話を耳にしますが、明らかに走力が違う人を同じスタートラインに立たせることによってお互い競い合う気持ちが全く持てないとすれば、その時点でそれは「徒競走」ではなく「走る速さ比べ(しかも分かりきった)」にしかならないという点でほとんど意味のないかけっこになりかねません。(徒(いたずら)に走らせるという意味で「徒競走」・・なんてどう?Give me 座布団!)。だからスポーツではお互いに勝とうとすることによって全力を出し合い、それによってお互いが成長・向上していくような「競い合い」であるべきだし、逆にお互いが成長・向上していくような相手を選ぶことがスポーツでは結構大事なんじゃないかと考える次第です。うーん、久々に真面目に哲学っぽく語っちゃいましたが、納得していただけましたか?そーいえば私が小さい頃はだいたいどこの家でも母親が「よそ様と比べて物を言うんじゃありません!」なんて子供をしつけていたような気がしますが、これって「物事の本質へは比較によって近づくことは出来ない」というなかなか鋭い哲学的考察を直感的にしていたのかも知れませんね。え?単に貧しかっただけ?そうか、貧困は人を哲学に向かわせるのかも。・・ってことは私も・・? |